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恵林寺(甲州市小屋敷)赤門(四脚門)

  • 1976

写真: 恵林寺(甲州市小屋敷)赤門(四脚門)

写真: 恵林寺(甲州市小屋敷)赤門(四脚門) 写真: 恵林寺(甲州市小屋敷)黒門(総門)

mixi記事コピペ――2014年06月03日 16:56
14.05.30.
たしか3回目\( ̄▽ ̄)/
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=422201188619366&owner_id=32815602

乾徳山 恵林寺
宗派、臨済宗妙心寺派
本尊、釈迦如来
開山、夢窓疎石
開基、二階堂貞藤(甲斐国守護)
創建、元徳2(1330)年

武田信玄公、柳沢吉保菩提寺。

天文10(1541)年、武田晴信は応仁の乱より荒廃していた当寺へ、京より臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興。菩提寺と定めた。
永禄7(1564)年、美濃崇福寺より快川紹喜を招く。寺領寄進。
天正4(1576)年4月、信玄公葬儀。
天正10(1582)年4月3日、甲州征伐にて武田氏滅亡後、当寺へ逃げ込んだ六角氏16代 義弼(義治)、佐々木承禎らの引き渡しを拒否。これに憤激した織田信長は、信忠へ国師はじめ百余人の僧侶を三門へ集め火をつけるよう命じた。全山灰燼と帰す。
(実行は津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼ら)

快川紹喜国師は、燃え盛る三門の上で「安禅不必須山水減却心頭に火自涼(あんぜんかならずしもさんすいをもちいずしんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし)」
と偈を発して焼死したといわれている。
※長禅寺の僧 高山との問答において、高山が発した言葉という記録が残っている。よって創作、虚構、脚色の説が濃厚。

のちに快川紹喜国師の遺喝として全国区に知られ、再建された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。

本能寺の変のち、徳川家康によって再建。
明治38(1905)年には失火により諸堂宇を焼失している。



おまけ。
二十四将(一般)――
武田左馬助信繁
武田刑部少輔信廉
穴山玄蕃頭信君
板垣駿河守信方
甘利備前守虎泰
馬場美濃守信春
飯部兵部少輔虎昌
山県三郎兵衛尉昌景
高坂弾正忠昌信
真田弾正忠幸隆
内藤修理亮昌豊
秋山伯耆守信友
三枝勘解由左衛門尉守友
原美濃守虎胤
小山田左兵衛尉信茂
多田淡路守満頼
真田源太左衛門尉信綱
土屋右衛門尉昌次
横田備中守高松
小幡山城守虎盛
曾根下野守昌世
原隼人佑昌胤
真田安房守昌幸
山本勘介晴幸


甲斐国巡回マップ
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1VY8nmTna0GP6H1hoaMPR0a1JsgU


●17.01.24.
また来ましたー。なんだか残念な形になっちゃってましたー┐(´Д`≡´Д`)┌

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