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於曾屋敷(甲州市)始祖 於曽四郎経光墓

  • 2610

写真: 於曾屋敷(甲州市)始祖 於曽四郎経光墓

写真: 於曾屋敷(甲州市)北西角より北面 写真: 於曾屋敷(甲州市)小祠

奥に見えるのが於曽四郎経光の墓……だと思います。



mixi記事コピペ――2017年01月25日 13:51
17.01.24.
築城年、?
築城主、於曾氏(三枝氏・加賀美氏)
城主、於曾氏
廃城年、?
遺構、土塁

(→余湖様)100m四方ほどの単郭方形の居館であるが、西側半分は現在も御子孫のお宅となっており、東側半分が公園として整備されている。駐車場や案内板もある。
 屋敷とあるが、完全に城館の規模である。屋敷は「旗板」という地名の所に存在しているのだが、これは、土塁の上に旗や板を立て並べていたことから来ているのではないかという。
 部分的には土塁が崩され、堀も埋められてはいるが、それでも大体の形状を想像することはできる。市街地にある城館としては、その遺構をよく残している方であろう。
 城主の於曽氏は、甲斐源氏の一族で、加賀美遠光の4男、5男がこの地を拝領して於曽氏を名乗るようになったのに始まるという。鎌倉時代のことである。
 戦国期に入ると、板垣氏が於曽の地域を継承し「於曽殿」と呼ばれていたとのこと。また、この屋敷の周囲には、金山技術者である金山衆が多数、居住していた。武田氏にとって重要な居館であったのだろう。
 現在は、土塁と堀が1重しているだけの形状に見られるが、かつては二重の堀と土塁に囲まれていたといい。現地案内板の復元図を見ると、南の外側土塁は枡形になっている。単郭の居館としては、けっこう技巧的なものであった。(←)

(→wiki於曾氏)人皇第56代清和天皇の苗裔、新羅三郎義光の後胤で甲斐源氏の一族である加賀美氏の支流である。
「於曽」は『和名類聚抄』に記載される山梨郡の管郷で、於曽郷は甲府盆地北東部の甲州市塩山に比定され、甲州市塩山上於曽・同塩山下於曽に遺称地が残される。 『三枝氏系図』[2]に拠れば、古代には甲斐の在庁官人で盆地東部に足跡が残されている三枝氏の三枝守国三男守継が「隠於介」を称しており、三枝氏の一族が当地に拠っていたと考えられている。
平安時代後期には甲斐国市河荘に配流された源義清・清光親子の子孫は甲斐源氏として甲府盆地各地へ進出して土着し諸氏が分出するが、於曽郷には甲斐源氏の一族である加賀美遠光の子で於曽姓を称する光経(於曽五郎)、光俊(於曽五郎、名は経光とも)[3]の存在が知られ、甲斐源氏の一族が当地に拠り於曽氏を称していたと考えられている。戦国期には、於曽氏に代わり武田家臣団に含まれる板垣氏が出現する。

周辺城郭地図(城郭放浪記様)→ http://www.hb.pei.jp/shiro/kai/ozo-yashiki/
甲斐国巡回マップ→ https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1VY8nmTna0GP6H1hoaMPR0a1JsgU

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