ヘルプ

東明寺(川越市)

  • 207

写真: 東明寺(川越市)

写真: 東明寺 虚空蔵菩薩像 写真: 東明寺(川越市)

mixiコメントコピペ――
2014年01月21日 12:38
「河越夜戦」
●前史――
室町時代後期、関東地方はその覇権を巡って古河公方と関東管領が対立していた。さらには、関東管領職上杉氏の内部で宗家 山内上杉家と、相模・武蔵を地盤に力をつけた庶家 扇谷上杉家とが対立していた。
永正の乱――
永正年間に起きた一連の戦争。永正3〜17年、越後国内乱〜山内上杉家内乱〜古河公方足利氏内紛〜越中神保氏討伐までの4段階に分けて考察されている。
その戦乱の渦中、扇谷上杉領であった相模において伊勢新九郎盛時(北条早雲)が台頭する。扇谷上杉方の大森氏、三浦氏を滅亡させ、勢力を広げていった。

永正15(1518)年、盛時隠居、嫡男 北条氏綱相続。翌年、早雲死去。
→ 「早雲庵宗瑞 (伊勢新九郎盛時・北条早雲)」 http://amba.to/KekZuE

永正16(1519)年、房総出兵。小弓公方 足利義明と真里谷武田氏を支援し里見氏と争う。
大永3(1523)年、武蔵国南西部の久良岐郡(横浜市西部)一帯までを経略、また武蔵国西部・南部の国人を服属させる。
大永4(1524)年正月、氏綱は武蔵に攻め込んで高縄原合戦で扇谷勢を撃破。太田資高を寝返らせて江戸城攻略。
江戸城攻略の後ただちに追撃を開始、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。
同年2月、太田資頼が後北条方へ寝返り、岩付城落城。
続いて蕨城攻略。
毛呂城(山根城)主 毛呂太郎・岡本将監が後北条方へ属したため、毛呂〜石戸間を手中にする。これは山内上杉方の松山城〜河越城間の連絡を遮断したことになる。
これに対し、扇谷上杉朝興は山内上杉憲房と和睦し、態勢を立て直す。さらに古河公方足利高基とも和睦。そして甲斐国守護 武田信虎とも結んで反撃に出る。
6月、太田資頼が朝興に帰参。
7月、武田信虎が岩付城攻略。太田資頼が岩付城に復帰。
氏綱は朝興と和睦、毛呂城返還。
大永5(1524)年2月、氏綱は和睦を破って岩付城を奪取。
すぐさま山内上杉憲房・憲寛父子の逆襲に合い、大永5年から大永6年にかけて武蔵国諸城を奪還、相模国玉縄城に切迫する。
朝興は関東管領山内上杉家、古河公方、甲斐武田のみならず、早雲時代に後北条氏と友好関係にあった上総国真里谷武田氏、小弓公方、そして安房国里見氏とも手を結んで包囲網を形成した。
氏綱は四面楚歌に陥る。
同年5月、里見氏が鎌倉へ侵攻、鶴岡八幡宮が焼失。
享禄3(1530)年、氏綱嫡男 氏康が小沢原合戦で大勝(氏康初陣)。
享禄4(1531)年、扇谷上杉朝興は岩付城を奪回。

天文2(1533)年、里見氏家中で内紛(天文の内訌)発生。15代 里見義豊が陣代である叔父 実堯と側近 正木時綱を粛清した(後北条氏と通じていたことから攻撃、殺害)。氏綱は実堯の遺児 義堯(里見義弘の実父)へ軍を貸して援助する。義堯は仇討ちと称して進撃、自害に追い込み里見氏本家の家督を得る。
里見氏が包囲網から脱落。

天文3(1534)年、真里谷恕鑑 死去(まりやつ じょかん。信清・信保など実名不詳。真里谷武田氏←上総武田氏庶流←甲斐源氏武田氏傍流←清和源氏)。
家督は庶長子 信隆が継承。次男 信応(のぶまさ)が生まれた時にはすでに後継者と認定されていた。しかし、里見氏の内紛に際しどちらを援助するかで恕鑑生前、すでに家中は分裂していた。
天文6(1537)年、家督抗争勃発。里見義堯、小弓公方足利義明は真里谷信応を、北条氏綱は真里谷信隆を支持。後北条氏と里見氏はふたたび敵対関係になる。
同年、造海城(百首城)に籠城する信隆は降伏。氏綱の元へ逃れ、隠居。

同年、氏綱は扇谷上杉家の本拠河越城を陥落、3男為昌を城代に置く。
天文7(1538)年、葛西城攻略。

同年、第一次国府台合戦。里見義堯は戦に積極的に参加せず、足利義明の劣勢を見つつ戦場から離脱している。義明は戦死。
小弓公方足利氏滅亡。
小弓公方を頼っていた信応の勢力が弱まると、信隆は信綱の支援を得て上総に戻り、椎津城を本拠とし復権を果たした。しかし、里見氏とも結んでいた信応の勢力が消えることはなく、天文10(1541)年頃から、再び真里谷一族で紛争が始まった(笹子城、中尾城の内紛)。これに後北条氏、里見氏とも見限り、真里谷武田氏の勢力圏内を侵食していく。天文20年に信隆、翌年には信応が没し、真里谷武田氏は途絶えた。

その後、里見義堯は味方であった下総や上総に積極的に侵攻し、上総の久留里城を本拠として里見氏の最盛期を築く。


●本筋――
※河越夜戦の模様を伝える当時の史料は少なく、記事は後世成立の史料や軍伝・軍記に基づいて編集されている。
→「深大寺城址 (水生植物園)」 http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000079695386&owner_id=32815602

天文10(1541)年、北条氏綱は病に倒れ、7月19日死去(55)。嫡男 氏康、家督相続。
※一説では天文7(1538)年に隠居し、氏康を後見していたとも。
同年、甲相同盟。
※武田信虎が追放される。

天文14(1545)年、駿河の今川義元が山内上杉憲政、扇谷上杉朝定(朝興の子)等と内通し、氏康の背後から挙兵。義元は、北条氏綱に奪われていた東駿河を奪還すべく侵攻した(第2次河東一乱(かとういちらん))。氏康は駿河に出陣するものの甲斐武田軍も加わって北条勢は押され、吉原城、長久保城を自落させるなど状況は不利であった。
そして状況は最悪となる。在陣中、山内・扇谷両上杉家が大軍を擁して義弟 北条綱成が守る河越城を包囲したという知らせが届く。
東西の挟み撃ちという危機に、氏康は武田晴信を頼り義元との和睦を図った。10月下旬、東駿河の河東地域を義元に割譲することで屈辱的ながらも和睦成立。後の武田氏を交えた甲相駿三国同盟の締結までは緊張が続いたが、氏康は挟撃されている絶体絶命の危機を脱し、武蔵へ転戦した。
※その後同盟関係を堅持し、駿河侵出はなかった。
※北条氏綱は関東に勢力を拡大する一方、父 伊勢新九郎盛時の代より駿河国今川氏との駿相同盟(主従関係とも呼べるようなモノ)に基づいて甲斐国武田信虎と甲相国境で争っていた。
天文4(1535)年、今川氏輝(今川氏親嫡男)の要請に応じて甲斐へ出陣。武田信虎の同母弟 勝沼信友を、北条氏綱が山中湖畔における合戦で討ち取るなど勝利を収めている。
天文5(1536)年、今川氏輝が急死。家督を巡ってお家騒動(花倉の乱)勃発。氏綱は嫡流 栴岳承芳(氏親5男)を支持。承芳が勝利し、今川義元と改め家督を相続する。
天文6(1537)年、義元は信虎長女 定恵院(武田晴信同母姉)を娶って甲駿同盟を成立させる。氏綱はこれに激怒して相駿同盟を破棄、今川義元と抗争が勃発した(河東の乱。第1次河東一乱)。
後北条軍は駿河国河東地方(富士川以東)を攻略。
※今川氏との主従関係より解放され、独立を果たした。

氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまで後北条氏と協調してきた古河公方 足利晴氏までもが連合軍と密約を結び、河越城の包囲に加わった。武蔵国を保持するため、共通の敵への総反撃を決する。
※一説では、関東全ての大名家が包囲軍に参加、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったとも。

天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東諸大名連合軍約8万の大軍が後北条氏の河越城を包囲。
城は氏康義弟 北条綱成が約3000の兵力で守備していた。増援がなければ落城は時間の問題だったが、綱成は食糧を十分に蓄え籠城したため半年も耐え抜き、戦況は数ヵ月間膠着状態にあった。
※北条綱成は後北条家一の闘将・猛将と称えられている。

今川義元と同盟して関東に転戦した北条氏康軍は1万にも及ばず(およそ8000)、圧倒的に劣勢だった。氏康は連合軍本陣へ、これまでに奪った領土を返上すること、城兵の助命嘆願を書状に認め、長期対陣で疲弊する連合軍の油断を誘った。最初は呑まれず攻撃も受けたが、再三にわたり書状をしたためる。府中まで軍を退きもした。士気の低下しきっていた連合軍3家は兵力の差もあり、勝負あったと弛緩しきった。
伝令は綱成弟 福島勝広(くしま かつひろ)。単騎で連合軍の重囲を抜け、河越城へ入城、兄綱成に奇襲の計画を伝えた。
天文15年4月20日(1546年5月19日)夜、夜襲決行。
氏康は8000の兵を4隊に分割。そのひとつを家老 多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。
兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、氏康は自ら3隊を率いて敵陣へ向かう。
子の刻、連合軍へ突撃。扇谷上杉軍、当主 上杉朝定、難波田憲重が討死。山内上杉軍、当主 上杉憲政は逃亡、本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死。なおも両上杉軍を追い散らして深く切り込んでいくが、戦況を後方で見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。
代わって城内から打って出た綱成は、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入し、浮き足立っていた足利軍を滅多打ちに破り古河へ遁走させた。
連合軍の死傷者は13000人から16000人と伝えられている。



※不詳項目――
夜戦があったかどうか定かではない。
籠城戦はあった。
連合軍は数的優位にあった。
大規模戦闘が河越で行われたか定かではない。
籠城側と後詰側の連携があった。
この合戦に関する感状が存在しない。
上杉朝定の死因が明らかではない。
攻城戦の記録がない。

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。