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溥儀が東京裁判にソ連の証人として出廷 1946年8月16日

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写真: 溥儀が東京裁判にソ連の証人として出廷 1946年8月16日

写真: ポプラ事件 1976年8月18日 写真: 京葉道路が日本初の自動車専用道路に 1961年8月15日

元満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀が東京裁判にソ連の証人として出廷し、ソ連に有利な証言を行った。
しかしそれは、後に自著「わが半生」の中でソ連に強要されたものだったと述べた。



先日、戦後70年の節目にあたり、安倍総理大臣から談話が発表された。


「 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。 」 ・・・以下に続く



先の戦争は、西欧列強による植民地支配からの防衛や解放(民族自決)のために始まった。
しかし満州事変以降は、その進路を誤り、反省すべき戦争への道を歩んでしまったと述べられた。


国連脱退
http://photozou.jp/photo/show/2506004/225278095



【満洲事変】
1931(昭和6)年9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満州鉄道線路上で爆発(柳条湖事件)に端を発し、関東軍は事件を「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定。満洲の奉天軍閥である張学良軍との戦いを開始。ここに「満洲事変」が始まった。

関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺。すぐさま奉天や長春、営口などの近隣都市を占領。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。9月21日には林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が独断で越境し満洲地域一帯に侵攻した。さらに関東軍は、軍司令官本庄繁を押し切り、不拡大方針を進めようとした日本政府、日本陸軍の決定を無視し [自衛のため」 と称して戦線を拡大していく。

関東軍は、わずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領。張学良は、蒋介石率いる中華民国政府の指示によって、組織的な抵抗をすることなく満洲地域から撤退、間もなく満洲一帯は関東軍の支配下に入った。

なお「柳条湖事件」は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするために自ら行った陰謀であったことが、戦後のGHQの調査などによって判明している。


【満洲国建国と溥儀】
関東軍は国際世論の批判を避けるため、満洲地域に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した国家の樹立を目論み、その国家に正統性を持たせるため、清朝の皇帝(ラストエンペラー)で満州族出身、北京政変による紫禁城追放以降は日本租界へ身を寄せていた溥儀を元首に擁い、親日的な軍閥による共和国(君主制国家)を設立することを画策した。

大同元年(1932年)3月1日に満洲国建国宣言。満洲国に在住する主な民族による「五族協和」を掲げ、新京に首都を置く満洲国が建国され、溥儀は同年3月9日に満洲国の「執政」に就任する。

「執政」就任の2年後、1934年3月1日、溥儀は満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となった。


【満洲国崩壊と退位】
ソ連は1945年8月8日、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約の一方的な破棄を突如通告。数十分後には、ソ連軍の大部隊がソ満国境を越えて、日本の同盟国である満洲国に侵攻した。

溥儀や、その家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと8月10日に首都の新京の放棄。日本領の朝鮮との国境に程近い通化省臨江県の大栗子に、南満州鉄道の特別列車で避難した。しかし8月15日、日本は連合国降伏し、8月17日には国務院が満洲国の解体を決定。8月18日未明、大栗子で満洲国の消滅を自ら宣言するとともに、満洲国皇帝を退位した。


【東京裁判】
溥儀は、ソ連の強制収容所に収監された翌年の1946年に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)に、証人として連合国側からの指名を受け出廷。空路で東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人としてソ連に有利な証言を行った。

その他にも、
「満洲国での自分の立場は、日本の傀儡以外何ものでもない」と主張。
「執政から皇帝への申し出にも、本当は拒絶をしたかったが私だけでは抵抗出来なかった」
「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾。
それでも「満洲問題に関する責任は全て日本にある」とも強調した。

しかし、溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることも無かった。


後の、自叙伝『わが半生』では、
「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」
「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」
と記している。











写真は、溥儀が死の間際に所望した、晩年の好物であった「チキンラーメン」。
もちろん、カップではなく袋麺だったのだろうが・・・・。

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