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写真: 水戸殿上屋敷跡(文京区小石川)小石川後楽園 梅林

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2011年04月11日 01:38
戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。位階は贈正四位。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。
「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことにちなむという(千波湖は後に東側を中心に埋め立てが進み、元の3分の1ほどの大きさになったため、現在の生家跡から東に湖は見えない)。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)と言い、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持つ。東湖の他には梅庵という号も用いた。東湖を号するようになったのは謹慎処分の解かれた嘉永5(1852)の頃。
父は水戸学者藤田幽谷、母は町与力沢氏の娘。藤田家は、遠祖が平安時代前期の政治家である小野篁に遡ると言われ、中世に常陸へ移り、江戸初期には那珂郡飯田村中島で百姓を営んでいる。言徳の代に水戸城下へ移転し、古着商を営む。
神道無念流の岡田十松に入門し、江川英龍や斎藤弥九郎らと親交をもつ。
弘化元(1844)年5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪される。更に同3(1846)年斉昭が謹慎解除されるとそれまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。嘉永3(1850)年にようやく水戸に戻ることを許され、同5(1852)年には処分を解かれている。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6(1853)年にペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元(1854)年には側用人に復帰している。
同年、西郷隆盛が樺山三円と共に東湖の許を訪れ、彼の印象を次のように記している。「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」→「彼(東湖)の御宅に伺った時は、まるで清水を浴びたような、心に少しも曇りのない清らかな心になってしまい、帰り道を忘れてしまうほどでした」
安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50………。

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