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妻女山(赤坂・赤坂山。斎場山・祭場山。長野市松代町)上杉謙信本陣跡

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写真: 妻女山(赤坂・赤坂山。斎場山・祭場山。長野市松代町)上杉謙信本陣跡

写真: 妻女山(赤坂・赤坂山。斎場山・祭場山。長野市松代町) 写真: 妻女山(赤坂・赤坂山。斎場山・祭場山。長野市松代町)上杉謙信本陣跡

景観なし┐(-_-Ξ-_-)┌



mixi記事コピペ――mixi記事コピペ――2015年10月09日 11:42

15.09.30.
もろもろ ↓ m(_ _)m
川中島の戦い特設サイト→ http://www.furin-kazan.jp/nagano/shiseki/entry/000608.php
MORIMORIKIDS→ http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori07/07_01_02saijo/saijozan.html


(→wikiコピー)現在一般化している「妻女山」(さいじょざん)の表記は、上杉軍将兵が望郷の念を抱いて、遠く離れた郷里に残して来た「妻女を偲んで涙した」と江戸時代中期になってから芝居や浄瑠璃、講談等で語られて広まったことによるとされている。
元々上杉軍が陣を設けた場所について、『甲陽軍鑑』の記載は「西條山」(さいじょうざん)である。この記載は江戸時代中期に松代藩(真田家)から「妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也」(真田氏史書『真武内伝』)と指摘を受けているが、江戸期の地図は概ね「西條山」あるいは「西条山」と記載されている。そのため、明治になってから作られた唱歌「川中島」の歌いだしも「西条山は霧ふかし」である。
しかし本来「西條山」あるいは「西条山」の名がつく山は南に10kmほど離れた全く異なる山であり、川中島の戦い当時は海津城将が上杉軍来襲を甲斐に狼煙で急報した烽火台があった場所とされている。松代藩が「西條山=妻女山」とした理由については不明であるが、西條山と同じ読みである
斎場山が上杉軍が陣を設けた場所とする説が、現在でも地元を中心に残されている(長野市の「信州・風林火山」特設サイトでも紹介されている)。
「斎場山」と周辺には多くの古墳が存在(埴科古墳群参照)し、古代から死者を弔い祭る山とされ「斎場」もしくは「祭場」と表記するのが正しいとされる。 斎場山は戸神山脈(もしくは鞍骨山脈、大峰山脈とも)にある上部の鞍骨城と、その下部の天城城の二つの山城を北に下った尾根先からT字形に東西へ伸びる山脈を形成している。その東端は赤坂で西端が笹崎、中央部の主峰が謙信布陣と伝えられる斎場山である。しかし斎場山や薬師山と表記されている地図もあれば、「赤坂」を「妻女山」と表記して、この最高地の「斎場山」を無名にしている地図もある。無名にしてある地図の方がむしろ多い。
この主峰を「妻女山」のままが良しとする説もある。それによれば「斎場山」山頂の古墳(直径40メートルの円墳)は、麓にある「会津比売神社」の祭神「会津比売命」の墓と伝説される。そして地元では「天上」もしくは「御天上」とも言うのだといい「会津比売命」は建御名方神の孫娘に当たるとする。初代信濃の国造である「建五月建命(伝説では森将軍塚古墳の被葬者)」の妻であるので「妻女」の山が正しいとするものである。

上杉謙信の妻女山布陣は定説となっているが「史実にはない」と否定するむきもある。天正10年、武田家を滅ぼし北信濃を領有した織田軍の森長可が本能寺の変で織田信長の後ろ盾を失って僅か2〜3か月で撤退後、徳川、北条らとの三つ巴(天正壬午の乱)の草刈場と化した川中島に、北条氏直軍の北上に備えた上杉景勝が長沼城を経由して海津城に入って妻女山・鞍骨城一帯に布陣し、これによって徳川・上杉両軍の挟撃を恐れた北条軍が上杉氏との講和をして撤退した史実との「混同」だとするのがそれである。(←)


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

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