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5◆素木の鳥居

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Photos: 5◆素木の鳥居

Photos: 4◆古殿地 Photos: 6-1◆幟の競演

<茜社(あこね・やしろ)|神宮外>

 鳥居の丈が低く身に迫る圧迫感を5月の陽気が軽減してくれた。
素木(しらき)の鳥居は珍しいものではないが、このように林立すると違和感が兆してくる。鳥居の林立といえば、京都・伏見稲荷の千本鳥居が連想されるが、その鳥居は朱塗り、稲荷社の特長だ。茜社の鳥居も朱色であってもよさそうなのだが・・・。

▽外宮勾玉池に抱かれた地に、この社がある。
 外宮の社域内にこの社はある。が、神宮司庁発行の、イラスト製リーフレットには勾玉池(まがたまいけ)までは図示されているのだが、池の勾玉型のなかにあるにもかかわらず、イラストの林で隠しているかのようにこの社は描かれていない。
 他県からの訪問者であれば、表参道近くの勾玉池畔にある遷宮館やその休憩所からは木々で覆われた茜社はまったくみえない。また、この神社の入り口が表参道口より遠く、参道前の道路沿いに入り口あるものの、団体バス用駐車場の長い塀で非常に目につきにくい。準地元で幾たびか参詣している私にして、この前を歩いてようやく知ったのだ。
 描かれないのは茜社が「神宮125社」に含まれていないから、と一応納得はできるのだが、同じく外宮社域内にあって、北御門口のごく近くから通じる小径の奥にある、度会国御神社(わたらいくにみじんじゃ)や大津神社(それぞれ外宮の摂社と末社)も、イラストの林で明示されない扱いに気づくと、この茜社がまた不可思議な存在にみえてくる。

▽案内板によると、茜社は創建は986年以前の古社であり、かつ外宮の摂社であったと推定されている*1。また、境内社に豊川茜稲荷神社、天神社がある。

 『伊勢神宮の祖型と展開』(桜井)によると、「中古近世」に外宮の末社であり、明治5年に度会(わたらい)県に移管されている(p.266表2)。外宮とはやはり深い関係があったのだ。
 宮社のなかには、中世に廃絶したものもあり、一方、地域社会の氏神と崇められて、上代の規模を“逸脱”して宏壮な殿舎を構えた社もあった。
 それが明治4年5月の太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」以後、神宮制度の改革が次々となされ、「神宮祭主を頂点とする一元的指揮命令系統の下に所管宮社奉祀の体制が成立した」(p.261)。これにより別宮、摂社、末社、所管社、それぞれの格式に応じたあり方(例えば、外宮別宮の風宮[かぜのみや]などの忌火屋殿[いみびやでん]を取り除いたり、内宮別宮の伊雑宮[いざわのみや]の金銅金物を撤廃した)に逐次変えて、現在に至っている(p.267など)。
 茜社の場合、「内実は『[神宮]司庁より旧復ノ儀勧誘ニ依テ』」、「紅白幟或ハ折腐ノ鳥居等林立、其体裁甚不宜、然テ苑地ノ全面ヲ汚シ候」という理由で、神宮移管が進められた(明治24年)が、茜社域内の「稲荷信仰が盛んである関係からか、氏子側においても手放すことを承服しなかった」(p.273-4)。

 茜社域の、豊川茜稲荷の林立する鳥居は、(上記により遡ること)明治末期まで、朱色に塗られていた事情が判るのだが、写真のように現在素木である(その後、地元に住む神宮職員の話により昭和50年代まで朱色に塗られていたことが判った)。撮影当日の違和感は当を得ていたのだ。ちなみに、同稲荷の社前の幟(のぼり)は白地に赤の文字色である。おそらく神宮側の忌避感に今も対応してるのだろう。

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*1:三重県神社庁(同Hp「茜社」)も同旨。典拠は「豊受大神宮祢宜補任次第」(14世紀頃の史料)か。

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