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プロフィール

ニックネーム Kenji Sumura
氏名 周村 すむら 研二 けんじ
住所 イタリア
誕生日 9/27
性別 男性
血液型 A
結婚 独身
ブログ http://sumurakenji.blog112.fc2.com/
自己紹介
僕は2年浪人して東京芸大工芸デザイン科にパスしたが、入学してしまうと勉強そっちのけでオペラやコンサート、演劇などをに夢中になり、仕送りと奨学金だけではとうていやっていけないので、アルバイトに精を出す。今思うにその頃観たものの感動が、後の自分に大きく影響を及ぼしていったようだ。

卒業して、富士フイルムの宣伝部に入ったが、朝も遅刻が多く、会議中は必ず居眠りをするので上役を怒らせる。

こんな事をしながら一生を終わってしまうのであろうか。

このまま無難に生きて行った方がましなのだろうか・・・宣伝部では外部のイラストレーターにも仕事を依頼していたが、『さすがプロだなあ・・・でも訓練すればこのくらいは・・・こんな作品一点でオレの月給の3倍とは!』などなど思いは募るばかり、ついに退社を決意する。

憧れていたイタリア、ミラノに行こう。イタリアの空気をいっぱいに吸って、将来は宇野亜喜良やビアズリーのようなイラストレーターになりたいなどと夢は膨らむ・・・『イラストレーターになりたいのにミラノとは・・・何で又?』みんなにそう言われた。イタリアのグラフィックは、日本では高くは評価されてはいない。でも本場のオペラはいっぱい観ることが出来そうだから、行く価値は充分にある・・・

思い切ってミラノのデザイン事務所へ作品を送ってみた。それを見たD氏が大阪万博のため来日したので、東京のホテルで会って話はまとまり、渡伊が決まった。

退社して一ヶ月くらい経って、『インツーリスト』のバイカル湖号で横浜を発った。ハバロフスク、ナホトカ、モスクワ、ウイーンを経由し、12日後にミラノ到着という長い旅だった。上昇期の日本は、ビートルズ制覇の時代で、金なんかなくても自由に生きる、勉強なんて馬鹿くさい、皿洗いしながらでもいいから放浪の旅をしたい・・・いわゆるヒッピー大流行りの時代で、そんな大学休学の学生達と一緒の旅であった。

「D氏はあんたを拾ってくれた方なのだから、恩返しのつもりで頑張らなくてはだめよ」とは、横浜まで見送りに来てくれたお袋の言葉。

ミラノに到着したのは5月の終り頃で、イタリアはすでに夏が始まろうとしている素晴らしい季節であった。

語学学校にも行かず、ミラノに着いた翌々日から仕事に就いた。D氏の事務所は『最後の晩餐』で有名なS.M.delle Grazie教会と眼と鼻の先の、環境のとてもいい所にあったが、何と従業員は僕ともう一人だけという小さなところ。

ともかく、彼のところで色んな物を描かされた。アールヌボーまがりのカレンダーから、昆虫の精密画、さては牛の糞を集めるマシーンのカタログに至るまで・・・富士山のように盛り上がった牛の糞の絵を描いたら、クライアントが『もっともっと山済みにしろ、これは高性能の機械なのだから』などと言う。

また居眠りの癖が出てD氏を怒らせる。午後から仕事をすっぽかして、スカラ座のゲネプロに行ったりするのでボスはいたって不機嫌、苦論が耐えなかった。

一年余りでそこを退社し、作品を抱えて仕事を探して歩いた。

旅行ビザしか持っていなかったので警察がとても怖かった。

運良く、『Gio.Rossiデザイン事務所』という所に採用が決まる。スカラ座まで徒歩で10分足らずで行けるところにあった。

ロッシ氏は非常に才能を感じさせる人で、植物にしろ、動物にしろ解剖学的に説明してくれたり、クリエイティヴの面でも抜群のひらめきを持っていた。この人に巡り合うことが出来て、本当に運がよかったと思う。しかも彼は商売でも凄腕だったから、あれよあれよという間にイタリア第一のパッケージ・デザイン事務所にのし上がって行った。

ともあれ、ミラノでイラストで身を立てることは、出発点から始めることであり、自分の不得意なテーマのために時間がかかりすぎたり、苦労のあとが見えすぎたりで、せっかく雇ってくれたロッシ氏も期待はずれだったらしく、結局は外注に頼ることが多くなる。ちゃんと月給は払ってくれるが、出勤してもやることが少なく、プロとして認められないことがどんなに辛いことかを、身にしみて味わった時期であった。

ある日、洗剤のパッケージのためのレモンの写真の上に、彼は僕に一枚の葉っぱと水滴を描き加えるようにと言った。10分くらいでさっと仕上げただけのものだったが、本物と勘違い?するほど生き生きとした出来映えに、ロッシ氏をすっかり感心させ、それを機に次々と仕事がまわってきて、気が付いたら事務所に無くてはならない存在になっていた。その頃、日本ではエアーブラシが最盛期だったが、イタリアではほんの初期、そこを見込んで、僕にブラシの仕事を徹底させ、僕も期待に添うものを次々と描いた。

自信がついてくると、その次に起こって来る問題は当然のとながら月給のことで、何度昇給を頼んでも、ふわりふわりと身をかわすだけで相手になってくれない。

とうとうしびれを切らして『出て行く!これだけ仕事をしているのに、自分の着ている物は、スーパーの安物だけだ。これからはフリーになって、モンテナポレオーネ通りの服を買うだろう』などと勇み立ったら、何と月給を3倍に上げてやるなどと、ケロリとして言うのだ。こっちも考えに考えた末の決心だったので、後戻りする気持はなく、一応円満解決してフリーとして仕事を出してもらえることになり、その後20年近くも僕の欠かせないお得意さんになってくれたのだった。

僕が雇われた頃、イタリアの昼休みは3時間位いあってのんびりとしていたが、国際的に物をみるロッシ氏の所ではすでに1時間だけである。時間にもとても厳しく、奇麗好きな人で、朝寝坊、整理整頓の苦手な自分はたびたび注意された。

クリスマスの前にロッシ氏が言う。『私にクリスマスのプレゼントをしてくれないかね』怪訝な顔をしているこっちに、『来年からは、朝、15分早く起きてくれること、一週間に一度、机の上を奇麗にかたずけてくれることが、わたしへのクリスマス・プレゼントだよ』

フリーの仕事はかなり順調にスタートしたようだ。広告代理店を回っても『ジョー・ロッシが、うちには日本人のマエストロがいると自慢していたけど、君のことなんだな』などと言って仕事を出してくれた。

僕はパッケージだけでは物足りなく、エディトリアルやレコードジャケット、広告の仕事もやりたくて、フリーになったのである。だが、やっと訪れた大物の仕事は、日本男児が切腹をしているイラストという、自分の感性からほど遠いものであった。

でも、このチャンスを逃してなるものかと頑張った。日本製品、ガスライターの新聞広告で、『不良品があったら、腹を切ってお詫びをする』というようなコピー。何しろ一流新聞の全ページ広告に出たので、それを見た新聞社が、すぐに声をかけてくれて、人気女性雑誌の表紙をやらせてくれた。

その後30冊の文庫本の表紙の仕事が回ってきた。アルセーヌ・ルパンシリーズや、F・サガン、クローニン、モラヴィア、アジモフなど多種多様の本が混じったシリーズで、その仕事のお陰で、ヨーロッパの風俗などを学ぶことが出来た。

80年に入って、世界中が好景気の時代がやって来た。

僕も無我夢中で働いた。仕事は追っかけるように入って来る。あるインタビューで「君は何処のメーカーの仕事をしましたか?」と聞かれたことがあっが、「僕のまだやってない企業はアルファロメオだけです」などと冗談を言って笑わせたくらい、言うなれば、僕は『何でも屋』だったのだ。優秀なイラストレーターの少ないイタリアでは『何でも描けるなんて素晴らしいことではないか』と褒めてくれる人もいたから、ものは取りようかも知れない。

スカラ座の友達も出来て、沢山のオペラやバレエも欠かさず観ることが出来たし、バイロイト・フェスティバルにも行き、毎年5月のミュンヘンのバッハ・フェスティバルに通った。そして、あちこち旅行もするようになった。ヨーロッパは小さく、車さえあれば難なく旅行できるのだ。

イタリアと日本の違い、それは空間の広さの違いにあると言えるのではなかろうか。日本ではグラフィックの工房では、スペースの関係で壁に向かって仕事をする(今は知らないが)。イタリアでは壁を背にして仕事をする。広々とした空間で自分のイメージに沿って事務所を作った。

高校を出たばかりのイタリア人の若者達が、知人の紹介で後を絶たずに訪れるので、アシスタントとして雇うことにした。ゼロから始めるわけで苦労したが、教えることに情熱を感じる自分をも見出した。ちょうどその頃からデザイン学校なども創立され、僕も4年間教鞭を取った。

自分も含めて、イラストをやりたいなどという者に、裕福な家庭の出はいないようだ。リアルイラストをモノにするためには忍耐と根気を必要とするからだ。若者達は将来の高額所得を夢見て一生懸命やる。上達して来るとそこはイタリア人、堂々と昇給を要求してくるので私を戸惑わせた。

ミラノイラストレーター協会なるものが出来たとき、僕も会員になった。第一回目の展示会はミラノ城で開催され、テーマは『パスタ』。なかなかアイデアが浮かばずぐずぐずしているうちに、搬入締め切りの前日になってしまい、事務所からは催促の電話がかかってくる。もうこれまでと「猫がスパゲッテイを喰っているのでも描いとこう」と、一晩で描き上げて提出したら、意外と評判になり、雑誌やテレビでも紹介された。流行りのスーパーマンがスパゲッティを食べながら飛んでいたりする類いはいくつかあったが、猫とパスタの組み合わせは他にはなかったのだ。

その頃から何となく猫のイラストを描くようになった。クリスマスカードを毎年猫のイラストでやってばらまいたので、今だにそれを楽しみにしてくれる人もいるし、猫の本の表紙を頼まれたり、私の描いた猫のカレンダーを作ってくれた企業もあった。

イタリアでは4匹の猫を飼った。だが、自分のように独り者で、しょっちゅう旅行に出かけたりする者にとっては、留守中面倒を見てもらう人を探したり苦労は多い。いつも『こいつがいなくなったらもう飼うまい』と思い思い4匹も飼ってしまった。

僕は猫に冷たいと幾度か言われたことがあるが、自分が猫が好きなのは確実なようだ。人間の気紛れの犠牲者、猫を見るとき憐憫を感じ、こいつが死ぬまで面倒を見てやりたいと思う。猫は四つ肢の中でも最も美しい動物だと思う。僕は象の眼やトカゲの眼を見ただけで、我が家の猫を思い出す.誰かに猫の霊がついてしまったのだろうと言われた。

猫のエッセイや『猫の語る童話』なども書いてイラストもつけてみた。もう広告やパッケージのためのイラスト屋には飽き飽きしているので、自分の書いたものをどこかで出版してくれないかと、真剣に望んでいる。

話をもとに戻そう。90年半ばに入って不況がはじまって仕事も減っていき、アシスタントも成長して出て行った者もいるし、出て行ってもらった者もいる。僕も時代の波に乗ってリキテックス、筆、エアーブラシを捨てて、コンピューターに切り替え、今日に至っている。

最後まで残った若者は兵役後12年も僕のもとで働いた。何かにつけて頼りなかったのに、コンピューターの出現によって自信をつけ、我々の関係を対等なものにしようとするその気魄に圧倒され、時代の移り変わりに眼の眩む思いがした。

ますます世の中は住みにくくなって行くようだが、僕にとってのテーマは、今、自分に出来ることとは何か、まだ発掘されていない可能性が自分の中にあるなら、それを探し出して育てて行きたいということだ。

もう一つ、僕の人生において重大なことが起きたことを書かねばならない。

生まれつき左耳が聴力ゼロだったのに、大切な右耳も用を足さなくなったことだ。

1998年だったと思うが、右耳が突発性難聴にかかり,あれよあれよという間に聴力が低下していった。現在(2012年)では、補聴器なしでは聴力は全くのゼロに至っている。幸い補聴器の近年の進歩で、何とか生活しているが、近い将来は人工内耳の手術を受けることになると思う。

それに先立って、生まれつき聞こえなかった左耳は1年半前に人工内耳の手術をした。

なぜこんなに遅く手術をしたかと言えば、近年の医学の進歩で蝸牛から脳へと伝わる脳神経が未だに健在だということが確認されたからである。だが、手術をしたからって、そう簡単に聞こえるようになる訳ではない。電流に還元された聴神経から伝わる音を、言葉や音楽に形成するためには、学習によって脳神経を呼び覚ます訓練をしなければならないのだ。

残念ながら70年も眠り続けた脳神経は、そう簡単には眼を覚ましてくれない。

4年も5年も懸かるといった名医もいる。

がっかりだが、もうやってしまったんだから、これも運命だと思っている。

こんなに年をとってもやることはいっぱいあるんだから、いちいち気にしてても仕方がないって気持ちも。人間は年を取ると割り切りも早くなるようだ。

それに引き換え、右耳の方は簡単なのだそうだ。13年前まで普通に聞こえたんだし、その後ずっと補聴器を付けていたから、脳神経は活躍しっぱなし。手術後3、4ヶ月で効果が出て来るとのこと。そうあって欲しい。

81歳で手術を受けたという老人と話したことがある。

「15年前から補聴器に頼っていたが、それもままならなくなったので手術を受けた。効果は4、6ヶ月で現れた。手術をして本当によかった」

今、僕は左耳(人工内耳を受けた)のための気長な言語の学習に励み、徐々に退化して行く(補聴器の限界も近づきつつある)右耳の将来を考えている中途半端な状態におかれ、正直、とまどっている自分を見いだす。

こんな状態で素敵な音楽を楽しむことは出来ない。

でも過去に聴いた素晴らしい記憶が僕を助けてくれるのも事実だ。

そして・・・外に眼を向けると、もっともっと重い病いで、苦しんでいる人たちがいっぱいいることも。

耳以外は一応元気な自分を,幸せだと思わなければならないと思うこともしばしばだ。(2012年2月)

*略歴
東京芸術大学工芸デザイン科卒業後、富士フイルムに入社、宣伝部、意匠デザイン部(パッケージ)に6年間勤務。1970年、富士フイルムを退社して、イタリア・ミラノへ。7年間パッケージデザイン事務所(ジョー・ロッシデザイン事務所)に勤めた後、フリーとなるり事務所を設立して今日に至る。93年頃からコンピューターで製作。

*私のイタリアでの仕事
パッケージ、エディトリアル、広告などのイラストレーション。Istituto Europea Designで4年間教鞭をとる。ミラノ・アート・ディレクターズクラブで受賞。その他パッケージ・イラスト部門で受賞。多数州立デザイン展に招待。

*趣味
現在はエッセイ、小説を書くこと。クラシック音楽、特にオペラ。イタリアオペラ、ワーグナー、そしてバッハなど。旅行は42か国を巡る。

*好きな動物
猫。ミラノで4匹の猫を飼った経験あり。 

*私の書いたエッセイと小説
金と友情、アニタ夫人の第四の夫(300枚)、猫が語る短編集(300枚)、カロータは1992年生まれ(飼い猫のエッセイ300枚)、他1000枚。


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ミラノから贈る・猫ショートストーリーとエッセイ
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猫のおしゃべり・童話集
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