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13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

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Photos: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

Photos: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田) Photos: 13.10.22.柳生但馬守下屋敷跡(品川区西五反田)

2013年10月23日 01:18

●柳生宗矩――
宗厳5男。永禄8(1565)年生まれ。
宗厳長男 厳勝(よしかつ/としかつ)は松永久秀配下として筒井順慶と戦ったとき、鉄砲で腰を撃たれ半身不随となった。柳生新次郎厳勝は廃嫡。
次男久斎、3男 徳斎は僧侶になった。
4男 五郎右衛門は中村一氏に仕官していた。
よって柳生家嫡子として徳川家に仕える。

慶長5(1600)年、関ヶ原合戦。家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事、筒井氏とその大和の豪族らと協力し西軍の後方攪乱作戦を務めた。
翌年、その功績により旧領大和国柳生庄2000石を取り戻した。また、のちの将軍 秀忠の兵法指南役となり、1000石を加増される。宗矩は秀忠からの信任が厚かったと伝わっている。
※後方工作は“柳生家”への依頼であったため、2000石は石舟斎、後から“加増”とされる1000石が宗矩自身への褒賞と考察される。宗矩は別家を興す、興したと。
慶長11(1606)年、父 石舟斎死去。遺領2000石はすべて宗矩が相続した。別途与えられていたという500石は公収か。
慶長19(1614)年、大坂冬の陣。徳川軍の大和国進軍の道案内役を務めた。
翌年、大坂夏の陣。秀忠の旗本として従軍、秀忠本陣に迫る敵兵7名(人数異説あり)をまたたく間に斬り殺した。記録では、宗矩自ら人を斬ったのはこの時が最初で最後となっている。

元和7(1621)年、のちの将軍 家光の兵法指南役となる。剣術指南も行った。
寛永6(1629)年、従五位下・但馬守叙任。
寛永9(1632)年10月、3000石加増。
同年12月、井上政重らと共に幕府惣目付(後の大目付)に任じられる。※老中、諸大名の監察任務。
寛永11(1634)年、沢庵 宗彭(たくあん そうほう)を家光に推挙。
寛永13(1636)年8月、4000石を加増されて計1万石、大名となった(大和国柳生藩)。
寛永15(1638)年、父の菩提を弔うため、友人の沢庵宗彭を招いて神護山芳徳禅寺を柳生(現 奈良市柳生下町)に開基。
寛永17(1640)年9月、500石加増。
寛永19(1639)年、次男 友矩の遺領2000石を引き継ぐ。計1万2500石。
宗矩と同時期に徳川氏に仕えた小野派一刀流開祖 小野忠明(御子神典膳)の所領はわずか600石ほど…。一方の宗矩は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えて大名にまで栄進した。相当の信任を受けていたことがうかがえる。また、一介の剣士の身から(父は牢人にまで落ちていた)大名にまで立身した剣豪に分類される人物の中では、日本史上、宗矩ただひとりである。
正保3(1646)年3月26日、江戸麻布 日が窪の自邸で死去(76)。柳生庄 芳徳禅寺(現 奈良市柳生下町)に埋葬された。
ほかに、練馬区桜台の圓満山廣徳寺にも墓所がある。京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。鍋島元茂・鍋島直能により、佐賀県小城市の岡山神社境内の玉成社に祀られている。
正保3(1646)年4月、従四位下贈位。
1万石の身で従四位下贈位は異例。家光との逸話は数多あるが、どれだけ信頼が厚かったか窺い知れる。
死後、遺言により所領1万2500石と家財全ては将軍家に返上、家光は宗矩の遺志通り、所領と家財を三厳・宗冬・列堂に分配している。



子は、隻眼の剣士として知られる長男 三厳(十兵衛。隻眼は俗説)、家光の寵愛を受けた次男 友矩(早逝)、将軍家師範役を継いだ3男 宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった4男 列堂義仙、他2女がいる。

剣士として「古今無双の達人」・「刀術者之鳳(おおとり)」・「父(石舟斎宗厳)にも勝れる上手」・「剣術古今独歩」・「剣術無双」など様々に賞賛されている。
また、「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い“活かす”ための手段となる」として「活人剣」を提唱しているほか、
沢庵の教示を得て「剣禅一致(剣禅一如)」等の概念を剣術に組み込むことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術を、人間としての高みを目指す武道に昇華した。
これら宗矩の思想は、柳生家の伝書である「兵法家伝書」に記され、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の剣道にも受け継がれた。
「兵法家伝書」は、「葉隠」や新渡戸稲造著「武士道」など武道以外の分野にも影響を与え、勝海舟も絶賛している。

3代家光には若年の頃より指南役として厚い信頼を寄せられ、松平信綱、春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」のひとりとして数えられた。
肩書きは兵法指南役であったが、剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価される。家光が長じた後も、沢庵とともに私的な相談を度々受けた。見舞いの床においても兵法諮問に答えている。
家光は生涯、宗矩以外の兵法指南役を置かなかった。


※柳生新陰流は柳生宗厳以降の新陰流の俗称であって、正式な流儀名は「新陰流」である。柳生氏によって伝承されたため柳生新陰流の名で広く一般に知れ渡っているが、分派を起こしたわけでもなく流派名も変更されていない。本来「柳生」を冠した流派名は弟子筋の流派で、宗厳高弟 柳生松右衛門(柳生姓を許された大野家信)より有地内蔵允(有地元勝)を経て福岡藩に伝わった系統が「柳生新影流」を称している。また武道学においては、上泉伊勢守が伝えた内容と柳生氏が伝えるようになってからの内容の差異、さらには柳生氏の系統とそれ以外の新陰流の差異を区分するため、「新陰流」と「柳生新陰流」と区別して用いている。

※逸話の数々はwikiほかをご照覧あれ。

※柳生庄→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=631135001&owner_id=32815602

※上泉伊勢守信綱→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000010587482&owner_id=32815602

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