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10.11.02.海晏寺(南品川)越前松平家墓所

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Photos: 10.11.02.海晏寺(南品川)越前松平家墓所

Photos: 13.07.10.海晏寺南(南品川)旧仙台阪 Photos: 10.11.02.海晏寺(南品川)松平春嶽廟?

mixiアルバム記事コピペ――https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=859975126&owner_id=32815602
2011年03月08日 22:40

※超おまけ(書きたいけど、どうにも相応しいエリアが某の懐に見つからないので、しばらくはこちらにw)
●薩摩御用盗──
相楽総三を総裁とする浪士たちは、三田の藩邸に屯して悪事を繰り返した。
幕府は堪えよと言い続けたが、我慢しきれなかった庄内藩兵らが1867年12月25日、藩邸を焼き打ちして報復。挑発が成功し、江戸は早くも戦闘状態となってしまった。
鳥羽・伏見の戦い――戊辰戦争の発端である。

●赤報隊――
薩摩藩の西郷吉之助や公家の岩倉具視の支援を得て、慶応4年(1868)年1月8日、近江松尾山の金剛輪寺において結成。隊長は総三、公家の綾小路俊実、滋賀野井公寿らを盟主として擁立する。隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から。一番隊、二番隊、三番隊で構成される。

●相楽総三──
下総国相馬郡(今の取手市)郷士、小島兵馬四男。本名、小島四郎左衛門将満。
水戸天狗党挙兵に参加。のち西郷吉之助と交遊。
1867年1月、赤報隊結成。鈴木三樹三郎、篠原泰之進も在中。東山道軍先鋒として活躍。
1868年1月15日、年貢半減は総三自身が吉之助、岩倉に建白して受け入れられたもの。年貢半減令が認められたため、同令を掲げて進軍する。
1月29日、当初は順調だった。ところが早くから倒幕派に肩入れしてきた豪商に、年貢半減となれば貸付金の回収が覚束ないと唆されて取り消してしまう。
赤報隊はすでに信州まで進んでいたため連絡が行き届かず、2、3番隊は中止できたが、総三率いる1番隊は進軍を続けてしまう。
(2番隊は新政府に従い京都へ戻り、のちの徴兵七番隊に編入。3番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士を処刑――ウィキより)
2月9日、諏訪にいた総三を、大垣まで進軍していた官軍本隊が召喚する。
2月10日、総三が離れた1番隊を偽官軍として捕らえよという布告が信州諸藩に出回る。
(岩倉らは「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして岩倉らは財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し、年貢半減は総三らが勝手に触れ回ったことであるとして、公家の高松実村を盟主としていた高松軍とともに偽官軍の烙印(同年2月10日付け「回章」)を押した――ウィキにはこうある…f(-_-; )
2月14日、討伐軍襲撃。吉之助は総三を見捨てた――
諏訪へ戻った総三は、憤慨する隊員を鎮めておとなしく待った。
3月1日、相楽隊を正規の薩摩軍の付属にするという文書で総三を呼び出し逮捕。官軍参謀、進藤帯刀の手による。
他の隊員も翌日までに次々と捕らえられた。
3月3日、何の説明もないままに、総三は斬首、晒し首となった。総三は最期まで抗弁せず、黙って処分を受け入れた。享年30。下諏訪宿にて。妻 照も息子を総三の姉に託し殉死。
明治3(1870)年、同地に相楽塚が建立される。
事件から60年後の昭和3(1928)年、孫の木村亀太郎の尽力により、正5位が授けられ名誉が回復した。総三の断罪は冤罪であり、吉之助と岩倉に利用されたことが認められたのである。翌年、靖国神社に合祀された。
地元出身の国学者で総三とも親交があった飯田武郷により首級は盗み出され、青山霊園に秘かに葬られた。


2014年08月22日 19:33
青山霊園→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000089738088&owner_id=32815602

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