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10.11.02.海晏寺(南品川)旧参道

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写真: 10.11.02.海晏寺(南品川)旧参道

写真: 10.11.02.海晏寺南(南品川)旧仙台坂 写真: 海雲寺(南品川)山門

mixiアルバム「旧東海道中5 鮫洲/海晏寺」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000003793166&owner_id=32815602
2010年11月18日 19:18
旧東海道外れてますがf(^ω^;
10.11.02.
鮫洲ってネームは割と知名度高いですけど。住所にはないんですよーノシ

●海晏寺――建長3(1251)年頃、品川沖に浮き上がった大鮫の死体から正観音木像が出てきた。これは珍しいとその正観音木像を安置するための堂宇として、5代執権北条時頼が開基となって、宋から渡来した禅僧蘭渓道隆(建長寺開基。没後、後醍醐天皇より「大覚禅師」の号を賜る)の開山で臨済宗の寺院として創建されたと伝えられている。元は三田功雲寺末。
※ここ「鮫洲」という地名の由来。
かつては多くの末寺を有したが衰退し、文禄2(1593)年徳川家康が天叟慶存を招いて再興、現在の曹洞宗の寺院となる。本多佐渡守正信が住持。
江戸時代、“御殿山の桜”とならび紅葉の名所として知られていた。
東海三十三観音霊場30番札所。
某が母上の実家が檀家である。御先祖様の墓石が丘の上の方に並んでいる。


●俳人加舎白雄(かやしらお)は、元文3(1738)年江戸深川の上田藩邸で加舎吉亨の次男として生まれた。本名は吉春。幼くして母を亡くし、20歳頃には僧侶を志したこともあった。
明和2(1765)年松露庵烏明に入門するが、烏明の師・白井鳥酔に大きな影響を受ける。初号の白尾は鳥酔から与えられた。芭蕉の作品を模範とし、その作風を近世後期の俳壇に定着させた。安永9(1780)年42歳のとき江戸日本橋鉄砲町に春秋庵を設立、関東、中部地方に門人3,000を擁した。この時期にも信州上田には親類が多くいたため、たびたびこの地を訪れ、白雄は上田を「ふるさと」と呼んでいた。
生涯独身、清貧孤高、その作品は無技巧、繊細な秀句が多く、「 人恋し火とぼしころをさくらちる 」は代表作。また白雄は能筆家としても知られ今日なおその書を愛する人が多い。
・上田とその周辺の白雄門人には、小島麦二(ばくに)、岡崎如毛、成沢雲帯、荒井三机(さき)、小島玉馬、宮本虎杖、倉田葛三(かつさん)、など全国にその名を知られた方々がおり、地域に俳諧を広め庶民文化の向上に大きく貢献したという。江戸時代、寺子屋が普及し「読み」「書き」を学んだ多くの人々は働きながら文芸に親しんできたが、その伝統は近・現代まで続いており、そのような庶民文化の一つの源流となったのが、加舎白雄とその門人たちである。


●白井鳥酔(しらいちょうすい、元禄14(1701)年〜明和6(1769)年)は、江戸時代中期の俳人。上総国埴生郡地引の旗本知行所の郷代官を務める家に生まれる。本名は喜右衛門信興。享保6(1721)年、家督を継ぐが、享保11年に弟に家督を譲り、剃髪して江戸に出た。佐久間柳居の門に入り、俳諧に専念する。柳居とともに天明の俳諧復興の魁となった。
墓は千葉県長生郡長南町地引の正善寺に分骨墓がある。なお、五七日に集った門人たちは鳥酔の遺歯を分け合って、鳥酔と関わりのあった土地に供養することをそれぞれ約束し、現在でも鳥酔の供養塚がゆかりの地に残されている。
(おふたり。アチコチからコピペm(_ _)m ちょいアレンジw ┌(_ _)┐)
 海晏寺の代名詞?の、「松平春嶽」と「岩倉具視」の御墓は、一般人は御参りできません。


●↓・相楽総三、・松平春嶽、・岩倉具視、・横井小楠、・山内容堂↓簡単ですが人物紹介してます。

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