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10.11.02.東海寺塔頭高源院跡(品川区北品川)板垣退助墓

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Photos: 10.11.02.東海寺塔頭高源院跡(品川区北品川)板垣退助墓

Photos: 12.01.30.品川神社(品川区北品川) Photos: 10.11.02.東海寺塔頭高源院跡(品川区北品川)板垣家墓所

mixiアルバム記事コピペ――
2010年11月15日 22:38
10.11.02.

●板垣退助――
退助は元は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。
土佐藩士・乾正成長男。乾家は220石取りの馬廻役(上士)であり、後藤象二郎とは幼馴染み。(のちに板垣家と郷士坂本家は親戚関係になる)。
江戸で西洋式兵学を学び、軍制改革を進めて軍備改正主任を務めるなど、免奉行や側用役、大監察、大目付など藩の要職を歴任。
戊辰戦争では藩軍指令、東山道先鋒総督府参謀。天領甲府城の掌握へ美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868)2月14日は、“板垣信方”の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の後継であるとの家伝を示し、甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の言を得て板垣姓を名乗った。
明治2年(1869)木戸孝允(長州藩)、西郷隆盛(薩摩藩)、大隈重信(佐賀藩)と共に“第一期”参与就任。すなわち板垣ら4人は「薩長土肥」の藩閥新政府における筆頭藩士であるということ。
明治3年高知藩の大参事となり「四民平均の理」を発し、明治4年参議に。
明治6年征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの欧米諸国との国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂。板垣は西郷らとともに下野(明治六年政変)。
明治7年愛国公党を結成、後藤象二郎らと民選議院設立建白書を建議したが却下される。また、高知に立志社を設立。
明治8年参議に復帰し大阪会議に参加したが間もなく辞職、自由民権運動を推進する。
明治14年(1881)10年後に帝国議会開設という国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成、総理(党首)に。
明治15年4月岐阜事件(フォト)。
明治17年10月運動激化で加波山事件。自由党を解散。
自由民権運動の立場から華族制度には消極的な立場で、授爵の勅を断っていたが、明治20年(1887)5月、三顧之礼を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵。その結果、衆議院議員となることはなく、また伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退、帝国議会に議席をもたなかった。
明治23年帝国議会開設後、旧自由党を立憲自由党として再興、翌年自由党に改称、総理に就任。
明治29年(1896)第2次伊藤内閣、第2次松方内閣で内務大臣。
明治30年3月自由党総理を辞任。
明治31年対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣。この内閣は通称“隈板(わいはん)内閣”と呼ばれた。内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職。
明治33年(1900)立憲政友会の創立とともに政界引退。
明治37年機関誌『友愛』を創刊。
明治40年全国の華族に書面で世襲禁止を問う活動。
大正8年(1919)7月16日逝去。「一代華族論」という主旨から、子に襲爵させていない。

●私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としては資質に欠けるところはあっても、個人としての美しい徳を持っていたことでは近世の偉人である。(中江兆民)
日本の民主主義発展に大きな功績を残したが、彼自身は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさがなく、清濁合わせ呑むことが要求される政治家としては必ずしも有能だったとは言えないようだ。
一方軍人としては戊辰戦争における東北戦争などで目覚ましい活躍。しかし上述のように土佐閥の代表という事で軍人コースに入らず、政治の道へと進んだ。司馬遼太郎『翔ぶが如く』にて「板垣に文官など務まるはずがなく(中略)軍人以外にどういう仕事も適していない」と。
一般には近代立憲的な自由主義の思想を持っていたとされ、また中江兆民がルソーを翻訳したことから、近代思想の輸入者というイメージもあるが、当時の政局は少数派としての土佐閥の代理戦争的側面、派閥争いの側面があり、板垣そして中江も、思想的にはその基礎を王政復古に求めるもので、天賦人権論も天皇制を基盤としたものだった。
自由民権運動の英雄であった一方で(一般庶民から圧倒的な支持を受けていた)、藩閥政府による懐柔、隈板内閣の内紛などで世間を賑わせた。とくに「自由」を取り締まる内務大臣への就任は多くの風刺画を描かせ、宮武外骨の『滑稽新聞』は、自由は死んだのに板垣は生きていると揶揄。板垣は伊藤博文、大隈重信とならんで風刺画に描かれることの多い明治の政治家トップスリーらしい。

●現実主義者で、少年時代自ら稲荷神社のお守りを厠に捨ててみて、神罰が起こるか実証(結果神罰は起きず)。
食べ合わせ(うなぎと梅干、てんぷらと西瓜など)が悪いと死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証。
相原尚褧に対して、自ら特赦嘆願書を明治天皇に提出。結果、相原尚褧は特赦となり、退助に謝罪に訪れている。
屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じていたが、晩年金銭的に困窮し、明治44年(1911)頃、人を介して秘かに杉山茂丸に刀を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前大宮の初代「盛重」という名刀で、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と刀を持ち込んだ者に問うと、最初は躊躇ったものの「実は、板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれ、持参した」と打ち明けた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」なんてことも。
板垣家は曹洞宗で葬儀は遺志により仏式で行われたが、自身はプロテスタントだったりする。
没後も人気が高く、第二次世界大戦後、50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられている。
※後藤新平は板垣の期待通り政治家になっている。

※家伝によると乾家の初代・加兵衛正信は、「甲斐の武田晴信(信玄)に仕えた部将・板垣信方の孫で、父板垣信憲が改易ののち誅されたため、遠江国周智郡乾村に籠居して乾氏に改め、山内一豊が掛川に封ぜられた際に仕えた侍」であるという。但し乾家初代、乾正信には実子がなく、永原(山内)刑部一照の次男、平九郎を養子として後継とした為、信方および正信との血縁は無い。
※「板垣死ストモ自由ハ死セズ」実際にはこの言葉は当時板垣の秘書であった内藤魯一という人物が事件現場で叫んだとの説がある…。


板垣は襲われた後、起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と……!!

このとき治療にあたったのが後藤新平。板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」

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