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11.10.31.泰叡山瀧泉寺 目黒不動尊(目黒区)仁王門

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写真: 11.10.31.泰叡山瀧泉寺 目黒不動尊(目黒区)仁王門

写真: 泰叡山瀧泉寺 目黒不動尊(目黒区)伏見稲荷 写真: 穴守稲荷神社(羽田)

mixiアルバム「目黒不動尊 /青木昆陽」コピペ――
2012年02月11日 13:59
11.10.31.
●目黒不動尊――
泰叡山 瀧泉寺。たいえいざんりゅうせんじ。
天台宗。
本尊、不動明王。
大同3(808)年、慈覚大師(円仁。えんにん)開山。
※東国には慈覚大師開山の伝承をもつ寺院が多く、当寺の草創縁起も史実かどうか。
天安2(858)年、に堂宇造営。
貞観2(860)年、清和天皇より「泰叡」の勅額を賜わり、山号を「泰叡山」と称する。
元和元(1615)年、本堂が火災で焼失。
寛永元(1624)年、3代家光の意向により再建。以後、幕府の庇護下に。
寛永7(1630)年、上野護国院の末寺となる。

江戸時代より一般庶民の行楽地として親しまれている。
文化、文政時代に“江戸の三富”と呼ばれた富籤が行われていた。
寺名の由来である、境内の“独鈷の滝”を浴びると病が治癒するとの信仰があった。
落語“目黒のさんま”は、この近くにあった“爺が茶屋”が舞台とされる。
幕末、西郷吉之助がこの寺に参詣し、主君島津斉彬の健康快癒を願ったと伝わる。
毎月8日、18日、28日が縁日とされ、28日が露天商が出て最も賑やかな縁日となる。

※五色不動については→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000054483819&owner_id=32815602


マイマップ→ https://drive.google.com/open?id=1IPN9jzwy8ak1B2tVllsqRwvt7EW0BGCl&usp=sharing



↑コピペ……
五色不動
2012年03月25日 12:49

東京の五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5種6ヶ所の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも。
五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、3代家光が天海僧正の建言により江戸府内から5ヶ所(江戸城から5方向)の不動尊を選び、江戸の鎮護と天下太平を祈願したことに由来する等の伝説が存在する。5色となっているのは五行思想の五色(ごしき。重んじられた青・白・赤・黒・黄で、それぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している)と言われる。最初に四神相応の四不動が先行し、家光時代ないしは後年に目黄が追加されたとして語られる場合もある。
史跡案内など多くの文献ではこの説話が記載されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきがある。
一方で五色不動を研究したいくつかの報告によると、実際に“五色不動”という名称が登場するのは明治末または大正始めで、江戸時代の史実とは考えにくいとされる。しかし、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られる。
名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持っている。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸名所として“三不動”で知られている。ただしこの呼び名も明治からである。
このうち、目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名ともなっていて有名。目黒は将軍家光の鷹狩りに関連して尊崇されていた。目白は、将軍家光が目黒にちなんで命名したとも、目白押しから名付けられたとも。
江戸時代には目がつく不動は3つしかなく、それをセットとして語る例は存在しない。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものと考えられる。
※五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通している。不動明王に限らず、明王は元来密教の仏像。
※五色不動を結んだ線の内側が“朱引内”あるいは“江戸の内府”と呼ばれたという説は事実ではない。幕末の朱引図は五色不動と関係なく作られたもの。

・所在――
目黒不動――瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)
目白不動――金乗院(東京都豊島区高田。江戸時代は現在の文京区関口江戸川公園付近にあった新義真言宗新長谷寺の本尊)
目赤不動――南谷寺(東京都文京区本駒込)
目青不動――教学院(東京都世田谷区太子堂。本来の寺名は平井の目黄と同じ最勝寺)
目黄不動――永久寺(東京都台東区三ノ輪)
目黄不動――最勝寺(東京都江戸川区平井)

現在の住所は、明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動しているので本来の結界の役を失ったといっていい。
江戸時代初期の動坂(後述)には、伊賀の赤目に由来する赤目不動があったが、家光の命により目赤と名乗るようになり現在地へ移ったと称する。
目黒・目白・目赤の不動については、江戸時代の地誌に登場するが、天海と結びつく記述は一切ない。
教学院はもともと青山にあり、“青山の閻魔様”として親しまれていた。ここには近くにあった廃寺から不動像が移管されている。明治40年代にこの寺院は世田谷区太子堂に移転し、その頃から目青不動を名乗るようになった。
目黄不動は2箇所が同定されているが、いずれも浅草勝蔵院にあった“明暦不動”(のちに訛って、メキ不動と呼ばれたこともある)に近く、その記憶から目黄不動とされたのではないかと推測されている。
夏山雑談(寛保元年)には、目赤・目青も地名として記されているが、いずれも移転しており、移転をきっかけに名乗り始めたので誤り。
目黒の地名は目黒不動に因むという説があるが、古い地名であり、地名に由来して目黒不動となった可能性も高いと考えられている。
目白も上記同様に。

・諸説――
夏山雑談の記述には、天海が四方に赤・黒・青・白の四色の目の不動を置いたとしており、前述の浅草勝蔵院の「目黄」不動の噂にも触れているはいるが、目青や目黄の裏付けが取れなかったようだ。また当時の噂は四不動が主体で、目黄の扱いが曖昧だったことが見て取れる。
柳樽四十六篇(文化5年)では、“五色には 二色足らぬ 不動の目”という川柳が残されている。三不動しか知られていない一方で、五色に見立てる発想が確認できる。
明治以降、複数の目黄が乱立し、目青が登場し、従来の三不動も五色不動を名乗り始めた背景には、こうした都市伝説の影響があったのではないかと言われている。

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