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洗足池公園 (大田区南千束)南洲西郷先生留魂祠

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写真: 洗足池公園 (大田区南千束)南洲西郷先生留魂祠

写真: 洗足池公園 (大田区南千束)南洲西郷先生留魂祠 写真: 洗足池公園 (大田区南千束)南洲西郷先生留魂祠

「洗足池公園 ・勝海舟」
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2012年02月10日 23:57
11.10.31.
●洗足池公園 (大田区南千束)――
湧水池であり流れ込む川はないが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多数あり、用水路を通して池に流れ込んでいた。
洗足池の主要水源となる湧水は4ヶ所あったとされ、現在は清水窪弁財天(大田区北千束1-26)の涌水だけが残っている。今も水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れている。

ここの地名、千束には諸説あるが、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えにより、千束の一部が“洗足”となった、という説はひとつw

かつては池のほとりに海舟晩年の邸宅“千束軒”があったが、戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残るだけである。幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息したそうだ。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が移住し、西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。
勝夫妻の墓の隣に“西郷隆盛留魂碑”が建つ。これは西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で造った。大正2(1913)年、荒川放水路開鑿に伴い、当地に移築された。

桜と紅葉の名所。
中原海道沿い。環七 南千束交差点直近。


●勝麟太郎(海舟)――
1860年。
“咸臨丸、条約の批准書交換のため渡米。初の日本人のみの太平洋横断(護衛艦として)”
と謳われていたが、実はブルック大尉ら11名が補助として乗っていた。
サンフランシスコ到着後ただちに帰途についている。
護衛対象のポーハタン号とは一度も相見えていない。(渡航往路、37日。)
福沢諭吉、中浜万次郎など総勢96名が乗船。
勝は航海中、ずっと船酔いしていた――と大尉の航海日誌に書かれている。

1865年。
神戸海軍操練所閉鎖。勝海舟海軍奉行並罷免。
勝と坂本龍馬、永遠の別れ。
坂本龍馬、西郷吉之助と初対面。
「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。少したたけば少し響き、大きくたたけば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう。」(勝に宛てた手紙)

1866年。
勝、吉之助と初対面。
「勝氏に初めて対面したところ、実に驚くべき人物で、最初は打ちたたくつもりでいたのに、まったく頭が下がってしまいました。どれだけ知略があるのか知れない様子に見えました。」(大久保一蔵に宛てた手紙)
この時 勝は、吉之助に幕府による統治に限界がきていることを告げる。国政の現状に危機感を抱いていたのだ。
吉之助は勝の話に衝撃を受け、佐幕から倒幕派へ転向する。
西郷=薩摩藩。極めて大きな意味をもつ出会いだった。
ふたりは立場を越えて尊敬し合い、信頼関係が生まれていた。でなければ、龍馬らを薩摩に預けることはなかった。
この年、薩長同盟成立――


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