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恵解山古墳(JR京都線歩道橋。長岡京市)明智光秀本陣推定地

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Photos: 恵解山古墳(JR京都線歩道橋。長岡京市)明智光秀本陣推定地

Photos: 恵解山古墳(JR京都線歩道橋。長岡京市)明智光秀本陣推定地 Photos: 立命館中・高校(JR京都線歩道橋。長岡京市)明智光秀軍陣地推定地

19.01.21.ツイート
光秀記事パート9です(≧ω≦)b

天正10(1582)年5月7日、織田信孝へ四国仕置の朱印状を発行。そこには讃岐を信孝に、阿波を三好康長に、土佐および伊予については信長が淡路島到着後沙汰すると記されていた。

長曾我部元親が斎藤利三へ謀反決行を急ぐよう要求したことが元親記に書き残されている。

この頃、光秀は信長に徳川家康饗応(家康一行が訪問したのは5月15日)について相談があると安土城の一室に呼び出された。同室したのは小姓の彌助のみ。

ここで光秀は信長から、家康を本能寺に呼び出すので討ち取ること、そのために毛利征伐後援と偽って饗応役を解任して休暇を与えること、家康討伐後ただちに細川忠興・筒井順慶を従えて東海道へ侵攻することを命ぜられたのではないか。

家康一行には信忠と長谷川竹が監視役として同行することも知らされただろう。

信長の家康討伐計画がそのまま信長成敗に用いることができる。光秀に「時は今」が来た。

長曾我部家の仕置を最後に確認するが、信長の意向は変わらず。光秀は決断しただろう。
またこの際が、信長に足蹴にされた時ではないか。フロイス曰く「信長の好みに合わぬ要件」とは。

5月14日~17日の間に細川藤孝を説得し(説得済?)、家康と談合し同盟したと思われる。
談合が行われたであろうと推察される史料を上げていく。

公家であり吉田神社神官である吉田兼見の兼見卿記。なぜか天正10年の日記が2冊存在する。明智光秀が討滅させられた山崎合戦後に、この年の1月分からすべて書き直したようだ。合戦直前の6月12日で終わっている「別本」と、合戦後に書き直されて12ヶ月分揃っている「正本」とが。

都合の悪いことを全て書き換えて、光秀の謀反との関わりを疑われないようにしたと思われる。顕著な削除文は以下の通り。

6月2日。信忠が立て籠もった二条御所から誠仁親王(正親町天皇皇子 さねひと)が避難する際に、兼見の友人でもある里村紹巴が親王の乗る輿を持ってきたこと。
安土に向かう光秀を兼見が途中で出迎えて面会したこと。

6月6日。安土城にいる光秀に勅使として向かう兼見に、誠仁親王が京都の治安維持を伝えるよう命じた旨。
6月7日。安土城で光秀と兼見が、謀反の存分を雑談(ぞうだん)したこと。

6月9日。光秀から届いた兼見への礼状が自筆であったこと。
光秀より納められた銀子50枚は吉田神社の修理のためであると名分を追記。
親王から発給された光秀宛の奉書を下鳥羽にいる光秀に届けたこと。

戻って5月14日の書き換え。別本では「家康が信長に御礼のため安土へ登城、光秀は休暇を申しつけられた」とあり、正本では「家康が安土に逗留する間、光秀は休暇を仰せつけられていたが家康の接待の用意で大変だった」とある。

兼見は、光秀には談合をしている暇などなかったと示したいのか。

光秀が坂本に帰る5月17日までの4日間のどこかで、家康と本能寺討ち入り・信忠討ち・堺脱出などの行動計画が打ち合わされたはず。
そしてこの談合には、斎藤利三が、細川藤孝が、同席していたものと推察されている。

前述、山科言経の言経卿記6月17日「日向守の内、斎藤内蔵助は、今度の謀反之随一」と。勧修寺晴豊の日々記6月17日「かれ(利三)など信長打談合衆也」とこちらはずばり記している。
その4参照(・ω<)

やましなときつねトかじゅうじはるとよノふたりは吉田兼見と親しかった。光秀と朝廷間の対応役であった兼見は、当人から当事件の全てを知らされた数少ない人物のひとりであり、歴史の証人だ。

兼見は信長の対応役。信長上洛時にはすべて彼が。

勧修寺晴豊日々記には6月8日に兼見が参内して親王に報告したことも記されている。山科言経、晴豊、ほか公家衆がそこに同席した可能性は大いにある。

しかし一方の言経卿記は、変後の6月5日から山崎合戦前日までの8日間の記録が欠落している。書は天正4(1576)年から慶長13(1608)年まで日々記録されており、変の起きた天正10年前後の諸氏の動向も窺える貴重な史料なのに。

言経は何らかの理由でこのページを破棄している。破棄せねばならない内容──本能寺の変の顛末が記されていた可能性。

信長公記には、事件当夜の6月1日に光秀は利三ら重臣と信長討ちを談合したと書かれているが、これは既に実行に移す作戦指示だろう。誤伝通り陣中での談合であることは正しかろう。

変後光秀は、朝廷から政権の承認を早急に得ようと行動しているが、家康との同盟は最大の材料であっただろう。

秀吉は大村由己に命じた惟任退治記を親王や公家衆に何度も読み聞かせたという……。これは単純な世論操作ではなく、真実を知る朝廷の口封じであり脅迫だったのだろう。

さて兼見卿記。書き換えられた目的は何か。山崎合戦後なので光秀・利三を救おうとしたものではない。家康との関わりは微塵も見受けられない。およそ半年分の書き直しと修正、この苦労は本人のみのためだったか。

兼見は細川藤孝の従兄弟である。藤孝は上洛都度兼見邸を宿舎としている。
ちなみに光秀家臣 佐竹出羽守宗実は兼見の室の兄である。

藤孝に着目してみると、記5月14日の書き換え文の前に重要な記述がある。
「14日早朝、長兵が安土へ向かった」
長兵とは長岡兵部大輔、イコール細川藤孝。

前日には嫡男与一郎忠興とともに兼見邸に宿泊したことも記されている。これで細川藤孝も談合が行われていたであろう14日~17日に安土にいたことが分かる。

兼見の書き換えは細川藤孝を守るためと考察されている。

藤孝が光秀謀反を事前に知っていたと思われる経緯が、吉田兼見の6月1日不参。
上洛して本能寺に入った信長を、公家衆が大挙して訪問。ほぼ全員が出席という行事だったにも関わらず、兼見だけ訪問していない。

信長対応役であった兼見は、上洛都度真っ先に信長を出迎えていたという。その兼見がこの日に限って行事に参加していないとは、謀反決行の巻き添えを避けようとしたのではないかと考察される。

実行は翌2日の明け方。兼見の行動はややずれていたが、起こすことまでは知っていて、何日何時に決行かまでは正確に知らなかったと思われる。

三家四者談合の折には、決行日時までは決まっていなかった? 藤孝が(光秀の可能性は?)兼見に、信長が本能寺に宿泊している間は近づくなと警告した?
どちらがしたにせよ、公家衆の滞在時間に討ち入るとはとても思えないが。

決行日時が決まったのは、信長が御触れを出した5月29日(この年の5月末日)。関係者にそれを伝達したのは翌6月1日だったと思われる。

ここにまた兼見卿記に謎がある。几帳面に日々記していた兼見だが、4月に一度、5月に一度、各4日間日記を書かなかった日があるのだ。

これを調べてみると、4月の空白は20~23日で、ここは安土へ行っていたと推察する。信長が甲州征伐のち徳川領見物から帰参したのが21日、これを出迎えていたのではないか。

5月の空白は17~20日で、ここも安土へ出向いていたと推察する。家康が饗応されたのが15~20日で、兼見もこれに参席していたと推察する。

ここで藤孝と接触しているのではないか。そして決行は本能寺とだけでも警告されたのではないか。

信長公記では光秀・忠興に毛利征伐出陣を命じたのは17日となっている。光秀はこの日に坂本へ帰っている。細川父子も同様のはず。

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