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写真:

写真: 青蓮寺(君津市)近江屋甚兵衛墓

18.02.14.
参考「日本橋蛎殻町2丁目・蠣殻町公園/日本橋中洲」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000080283672&owner_id=32815602

巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=14zVB7XrB0PEC_mRyP1GxYJ_VHRU&usp=sharing




mixi「日本橋蛎殻町2丁目・蠣殻町公園/日本橋中洲」記事コピペ――
●林氏――
林氏は三河以来の古参旗本。大口。
林忠英――明和2(1765)年〜弘化2(1845)年。
小納戸・布衣→ 従五位下肥後守→ 小姓組番頭格・御用取次見習→ 11代家斉側衆→ 若年寄・上総国貝淵1万石転封(従前は旗本7,000石)
※貝淵・請西は現 木更津市。

林忠旭――文化2(1805)年〜慶応3(1867)年。
小姓→ 従五位下播磨守

林忠交(ただかた)――弘化2(1845)年〜慶応3(1867)年。忠英4男。兄 忠旭の養子となって――
従五位下肥後守→ 六番組大番頭→ 伏見奉行


林昇之介忠崇――嘉永元(1848)年〜昭和16(1941)年。忠旭5男。長男は夭折、ほか不明だが、忠崇が幼少のため、叔父にあたる忠交が家督を継いでいた――
上総国請西藩の第3代藩主。官位なし。

◎戊辰戦争にて唯一脱藩した大名。佐幕気風の強い藩ではあったが、みずから脱藩してまで戦おうとする藩主の出陣に、村民はみな道端に土下座して見送ったという。

慶応3(1867)年、大政奉還の報を受けた藩は洋式軍の調練を行うなど有事に備えたが、戊辰戦争勃発にともなって藩論は恭順派と抗戦派に分かれて伯仲。
同年閏4月に撤兵隊、伊庭八郎や人見勝太郎率いる遊撃隊など、旧幕府軍が来訪し助力を要請される。忠崇は自ら脱藩し、藩士70名とともに遊撃隊に参加した。新政府は、藩主自らの脱藩を反逆と見なし、林家を改易処分とした。
奥州へ転戦するも、旧幕府側の相次ぐ敗北により戦況は悪化、盟主の仙台藩も新政府軍に恭順した。徳川家存続の報を受け、忠崇は、戦争の大義名分が果たされたとして仙台にて新政府軍に降伏。江戸の唐津藩邸に幽閉された。
明治2(1869)年、甥の忠弘が東京府士族(300石)として家名存続が認められたものの、家禄は35石に減らされ、その後の秩禄処分によって困窮した生活を余儀なくされた。林家は旧諸侯にもかかわらず、改易の事情から華族の礼遇が与えられなかった。
明治26(1893)年、旧藩士による林家の家名復興の嘆願が認められ、忠弘は男爵を授けられて華族に列する。その際、分家していた忠崇も復籍して華族の一員となり、翌年には従五位に叙された。その後は宮内省や日光東照宮などに勤めた。維新ののち、開拓農民、東京府や大阪府の下級官吏、商家の番頭など、一介の士族として困窮した生活を送っていた。

※「江東区(東) / 墨田区(南) (12.06.14.)」内、“菊川3丁目”にちょびっと記事。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1673655842&owner_id=32815602
※「九段北(九段南)」こちらにも江戸屋敷(サイン6)。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000092044658&owner_id=32815602

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