ヘルプ

今福屋敷(韮崎市)

  • 2063

写真: 今福屋敷(韮崎市)

写真: 今福屋敷(韮崎市)

mixi記事コピペ――2017年01月26日 14:06
17.01.24.
参考「城館図鑑」様→ http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/011yamanashi/134imafuku/imafuku.html

●今福氏──
甲斐源氏傍流、奈胡十郎義行の末裔。現 中巨摩郡田富町今福を与えられた後裔がその姓を名乗る。代々甲斐源氏嫡流 武田氏に仕え、甲斐武田氏19代 晴信入道信玄の時代に譜代家老衆(70騎持)に登用された(今福浄閑斎友清)。
浄閑斎は狩谷原城主であったとされているが、事績もろもろ記録なく不詳。出家後には公事奉行などを務めていたよう。

今福長閑斎(浄閑斎)(今福善九郎? 石見守友清。月岩紹心庵主)。
(※数年前より浄閑斎は誤りだという説が浮上)

嫡男 今福善十郎友実(丹後守虎孝。丹波守虎孝?)。
次男 今福丹波守友久。
3男 今福筑前守昌和。次男??

養子 今福新左衛門昌恒(和泉守昌恒)。
(※長坂光堅次男。実子3男説)

嫡孫 今福友直。

永禄4(1561)年9月、第4次川中島合戦、武田本隊従軍。
今福善十郎虎孝(史料の多くが「今福善九郎」とされる。これは長閑斎と号した父 今福石見守友清か。戦前隠居しており、合戦には嫡男虎孝が参陣している)。
(飯山城(コメント3枠目)→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000096016137&owner_id=32815602

天正元(1573)年、今福浄閑斎は諏訪原城城番を命ぜられている。
天正3(1575)年、武田勝頼が長篠設楽原で大敗。
天正4(1576)年、徳川家康に諏訪原城を攻略される。
(この際浄閑斎は討ち死したとの説もあるが、弱い。墓碑が諏訪原城に→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000100999004&owner_id=32815602

丹波守友久は久能山城に退却したとの記述あり。
駿河国侵攻に置いて今福家各人は、信玄の旗本として従軍していたと思われ、駿河・遠江の諸城に城番として今福氏の名が見られる。これが家内各人を混同させている模様…。

天正9(1581)年、浄閑斎病没。

天正10(1582)年2月27日、家康に持舟城を落とされる。
続いて久能山城が包囲され、数日の籠城のち開城し甲斐へ撤収。しかしこの間、3男 今福昌和が討ち死している。
(※織田信忠の甲州征伐が行われている時。はたして甲斐へ引き上げるのか。友久には自刃説あり。)
(※昌和……木曽征伐に失敗。高遠城で仁科盛信とともに討ち死、と甲陽軍鑑。)

異説。近くにある海長寺に伝わる「椿の御朱印」には、「天正10年12月、家康は甲斐武田を攻略した時、残徒 今福丹波守の追撃から逃れてきて当寺の椿に潜み難を逃れた。公とのこのご縁で御朱印を賜り三ツ葉葵を定紋とすることを許された」とある…。

今福丹波守主従7名は、家康を発見できなかった責を負って自刃……との説と、落城の責・甲府を攻略され主家とともに、との説と。
(これが丹後守だとする説。久能山城落城に際し城を抜け出して城下に潜み、家康殺害を目論み……失敗。→ 杉原山虚空蔵堂)

久能山城麓(というには遠い)、清水湊方面にある本能寺が今福家の菩提寺だという。
近所にある鉄舟寺が、信玄が久能山から遷移させた旧久能寺。
?生き残った養子 今福昌常と嫡孫 今福友直は徳川家に雇用される。


うーん……しっちゃかめっちゃか(((o(≧口≦ Ξ ≧口≦)o)))



巡回マップ→ https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1VY8nmTna0GP6H1hoaMPR0a1JsgU&ll=35.72540618764343%2C138.44611845826603&z=13

アルバム: 公開

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。