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蛭ヶ小島(伊豆の国市)

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写真: 蛭ヶ小島(伊豆の国市)

写真: 蛭ヶ小島(伊豆の国市) 写真: 韮山反射炉(伊豆の国市)江川英龍像(江川坦庵公像)

mixi記事コピペ――2016年07月26日 17:29

16.07.12.
平治元(1159)年、平治の乱。これに敗れた源義朝と3男 頼朝ら兄弟ほかは、都落ちし東国へ落ちていったが、頼朝は一行とはぐれ平宗清に捕えられ、六波羅へ連れて行かれた。このとき父 義朝は謀殺され、長兄 義平は潜伏中のところをとらえられ処刑、次兄 朝長は逃亡中の負傷で落命。
永暦元(1160)年2月9日、平清盛から死を言い渡されること確実であったが、清盛継母 池禅尼の助命嘆願により(後白河院、上西門院らの意向も働いていた説)救われ、伊豆国への流罪とされた。
5男 希義(まれよし)も、同日流罪となっている。
4男 義門は平治の乱で戦死したと考察されている(内裏占拠までは存命していることが分かっている)。
6男 範頼は存在を秘匿されていたと考察される(生年不詳。平治の乱時に存在が確認できない。)
7男 今若丸(母 常盤御前)は醍醐寺にて出家、隆超と名乗りのち全成となる。兄 頼朝挙兵のもとに兄弟で最初に参陣したという。数多の源平合戦でいずれに参陣したかは不詳。史料なし。兄より拝領した駿東郡阿野荘の地名より阿野を苗字とする。頼朝死後、甥らや北条氏等の内訌に参加していたが謀殺された。
8男 乙若丸(母 常盤御前)は園城寺にて出家し、卿公(きょうのきみ)円成と名乗る。養父 一条大蔵卿に因むものと考察される。後白河天皇皇子 円恵法親王の坊官を務めた。兄 頼朝挙兵の報せに参陣、父 義朝の名より一字賜り、義円と改名した。頼朝の命で尾張で挙兵した叔父 源行家の軍へ加わると、功を焦ったか単騎敵陣に夜襲を仕掛けようと試み失敗、討死する。
9男 義経、省略。


実際には、どの史料でも「伊豆国へ配流」と記されているのみで、蛭ヶ小島であったかは不詳。この一帯から平安末の遺構は見つかっていない。


番犬2016夏 相州・豆州・駿東行脚
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1PkvHeOUkhrUN3MRGj4KFTxbse2o

巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1WiPgV9Fgfpjv5vy3v0kilOraqXU&usp=sharing



次男 源朝長「積雲院(袋井市)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099650130&owner_id=32815602
3男源頼朝「鎌倉七福神/源頼朝・大江・毛利・島津」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000000913737&owner_id=32815602
6男 源範頼「信功院跡・修禅寺鬼門鎮守 山王社(伊豆市)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000100168540&owner_id=32815602
7男 阿野全成「大泉寺/阿野氏館(沼津市)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000100181785&owner_id=32815602
8男 源義円「源平墨俣川合戦(大垣市営 義円公園)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099837174&owner_id=32815602

アルバム: 公開

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