ヘルプ

懸河古城/天王山龍華院 大猷院殿霊廟(掛川市)

  • 233

写真: 懸河古城/天王山龍華院 大猷院殿霊廟(掛川市)

写真: 懸河古城/天王山龍華院 大猷院殿霊廟(掛川市) 写真: 懸河古城/天王山龍華院 大猷院殿霊廟(掛川市)二郭、遺構?

mixi記事コピペ――2016年06月09日 16:46

16.05.19.
懸河城→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099673686&owner_id=32815602
別称、天王山城
廃城、永禄12(1569)年
標高54m/比高20m
遺構、土塁、堀切。

竜頭山に新城を築いて移ったため、ここは「懸河古城」と呼ばれ、懸河城の北東を守る出城もどきとなった。(ちなみにこちらは天王山または子角(ねずみ)山。)
永禄11(1568)年、家康の懸河城攻めにおいて、本陣が置かれたという説。
明暦2(1656)年、北条氏重が懸河古城本丸跡に、徳川家光の位牌を祀る「天王山龍華院 大猷院殿霊廟(てんのうざんりゅうげいん だいゆういんでんれいびょう)」を建立。
文化15(1818)年3月、火災により廟は焼失するも位牌と厨子は無事。
文政5(1822)年、太田資始が再建。※現在は瓦葺き。再建時は柿葺き。


(→)応仁の乱後、守護層の抗争が激しくなるにしたがい、今川氏は文明初年(1470年代)朝比奈備中守泰熈に築城させ掛川を守らせた。そして次第に城郭の拡張と強化をはかり、永正10年頃城の南西方の龍頭山に新城を築城した。
桶狭間の戦(永禄3年・1560)後、領国支配の衰退と武田氏の駿府侵略により朝比奈氏の守る掛川城に逃れた今川氏真は永禄11年(1568)から翌12年にかけ徳川家康と戦い敗北した。掛川古城はこの合戦のとき徳川家康の本陣として使われた。
掛川古城は標高48mの龍胴山を最頂部として東西約400m、南北約300mの規模で主尾根上と派生した尾根上に曲輪を配置し、その南麓に館を設けている。主尾根は大堀切によって分断され、西側と東側に分けられそれぞれ曲輪をもつ中世の典型的な城郭である。主郭は大堀切の西側に配置し、上段、下段から成っている。上段北東隅から東側大堀切部分と南北部分に土居の一部が遺存している。主郭の西側には二つの曲輪を配置し、北側には腰曲輪が配置し、北曲輪に通じている。大堀切の東側には東曲輪をはじめ二つの曲輪が階段状に配置され、南側に腰曲輪を設けている。北曲輪は主郭の北側から派生している尾根を削平して築造し、城の搦手は北側の北池で備えとしている。居館は主郭の南側24m下の台地に設けてある。城館周囲の北側は水田、溜池となり、南側は逆川、東側に谷を隔てゝ笠町砦、西側には掛川城が所在する。遺構の多くは通路、宅地などになり消滅し、主郭、大堀切、東曲輪、腰曲輪の一部を残すのみである。(静岡 城と戦国浪漫より←)
(???)

(→)掛川城は今川氏の重臣であった朝比奈泰煕により1500年ごろ子角山(ねずみやま)の地に築城されました(掛川古城)。
 その後、1513年には龍頭山(りゅうとうざん)(現在の掛川城公園)に新たに築城されたため、子角山には建物が残っていませんが、本曲輪は現在の龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)の位置にあったとされ、霊屋東側に残る大堀切(空堀)の跡に往時の面影が残っています。
 戦国時代の1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。
 子角山は龍華院大猷院霊屋の西側にある尾根と小学校沿いに整備された遊歩道の先にある東側の尾根によって構成されており、現在では龍華院子角山公園(りゅうげいんねずみやまこうえん)として、両側の尾根を一体的に整備しています。(説明板)


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1WiPgV9Fgfpjv5vy3v0kilOraqXU&usp=sharing

アルバム: 公開

お気に入り (0)

まだお気に入りに追加している人はいません。

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。