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写真:

廃寺跡? 御詠歌碑。
供養碑。
城址碑。



mixi記事コピペ――2016年05月24日 20:42

16.05.16.
別称、地伏城
築城年、永正年間(1504〜1521年。永正13年?)
築城主、菅沼定信? 定忠?
城主、田峯菅沼氏
廃城年、天正末〜慶長年間
標高545m/比高40m。
遺構、土塁・曲輪、堡塁

黒田川と名倉川が合流する地点の南西の丘陵に築かれている。信濃・美濃国境に近い、三河国としての要衝であり、かつ所領をもつ豪族としても(本城たる田峯城の北辺にあたり)重要な地勢。
山頂の本丸は西に櫓台(城山神社建立)を設け、北東に向かって二の丸、三の丸を連ねる。南は巨大空堀があり、外曲輪へと繋がっている。
参考「トレッキング愛知」様→ http://www.aichiyama.com/SAN230.html

文明2(1470)年、菅沼定信は田峯城を築城。
菅沼定信は田峯菅沼氏の祖とされる。菅沼氏は清和源氏頼光流、土岐源氏を称した。土岐頼康の曾孫 土岐定直が三河国額田郡菅沼郷に移り住んで、菅沼定直と称したことから始まったとされている(不詳)。菅沼氏一族は東三河を中心に広く分布。菅沼定成のとき田峯に移り住んだ。その後、奥三河の地に勢力を広げ、長篠・野田・島田菅沼氏の宗家として田峯菅沼氏と呼ばれた。
武家家伝→ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/suganuma.html
wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E6%B2%BC%E6%B0%8F

15世紀後期、東三河は駿河守護 今川氏の支配下にあり、菅沼氏は遠江国ほか各地の合戦に参陣、武功を挙げたとされる。
永正4(1507)年死没。
(築城は永正13(1516)年とする説があり、そうすると築城主は嫡子 2代定忠となる。)
武節城は田峯城の支城として城代が配置され、菅沼十郎、今泉孫右衛門といった名が伝えられている。

弘治2(1556)年11月、甲斐武田氏配下、信州上伊那吉岡城主 下条信氏が侵攻。激戦のすえ落城。「武節谷合戦」と呼ばれ、姫が身を投げたという「姫井戸」の伝説が城下に残されている。この頃、布里合戦で菅沼氏そのものが弱体化していた。
※同年2月〜、今川氏従属か離叛かで内訌続く。
菅沼定継wiki→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E6%B2%BC%E5%AE%9A%E7%B6%99

元亀2(1571)年、信玄が遠江三河侵攻を開始。菅沼氏宗家5代 菅沼小坊師定忠(2代定忠は曾祖父。定吉または貞吉という史料も)は、秋山伯耆守の猛攻に即刻武田氏へ降伏。(老臣らの調略が済んでいた説。)
元亀4(1574)年、信玄が没すると山家三方衆は武田方と徳川方に分裂する。

天正3(1575)年5月、長篠合戦参陣。武田氏大敗。定忠は落ち行く勝頼を伴って田峯城へ向かうが、留守居役の家臣 菅沼弥三右衛門定直、家老 今泉孫右衛門道善がこれを拒絶、入城できなかった。定忠は怒髪冠に達していたが、主の安全のためいち早く勝頼を誘導、武節城入城を果たす。
逃避行からようやく落着できた勝頼は、この城で梅酢湯を飲んだとか。
定忠は勝頼に従い信濃へ。甲府へ帰る勝頼と別れ、伊那谷で態勢を整える。
天正4(1576)年7月14日、定忠は田峯城を攻撃。反逆の一族家臣ら96人を皆殺しにした。城は捨て、再び伊那谷へ戻り、この後三河国へ帰ることはなかった。定忠は武田氏と運命を共にする。

甲斐一乱、織田信長横死などを経過したのち、奥三河は徳川方についた山家三方衆のひとつ、奥平氏の所領とされた。
天正18(1590)年、徳川家康の関東移封時。または慶長6(1601)年、前年の関ヶ原合戦の論功行賞で旧領へ復帰したが、再度転封になった時。このどちらかで奥平氏が廃城にしたと考察されている。


愛知県巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1Tm1-ahglvSiA7Y84fIdQmf0jGdA&usp=sharing

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