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関宿城三の丸(千葉県野田市)

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写真: 関宿城三の丸(千葉県野田市)

写真: 関宿関所(千葉県野田市) 写真: 関宿城久世曲輪(千葉県野田市)

――mixiアルバム「関宿城(千葉県野田市)」記載歴史記事6――
(行間2)
●三船山合戦――
永禄10(1567)年、上総侵攻中途。氏康は第2次国府台合戦の勝利以降 里見義弘の上総北部・西部の里見領をことごとく占領し、東部においては重臣 正木時忠、土岐為頼を帰順させてきていた。これよりは里見義弘居城 佐貫城を奪わんと当主氏政、3男氏照を出陣させる。
氏政は三船山(現 三舟山。君津市・富津市)山麓に砦を築き、わずか一里ほどにある佐貫城を水軍に見張らせた。これに危機感を抱いた里見義弘は即座に出陣、三船台の砦を急襲し落とす。
この報せに氏政は太田氏資らとともに江戸湾を渡海して佐貫城攻撃へ。氏照には原胤貞とともに別働隊を率いて市原郡方面から進攻、義弘父 里見義堯の居城 久留里城攻撃に向かわせた。これに義弘は正木憲時とともに佐貫城を出、ふたたび三船台に集結した氏政軍を攻撃する。激戦のすえ氏政軍は敗走、殿を務めた太田氏資が戦死した。両水軍間でも激しい戦いが行われた。三崎水軍の遅れで氏照軍も義堯に敗退している。里見義弘は勢いに乗じ追撃に転じようとしたため、水陸から挟撃されることを恐れた氏政はただちに全軍を相模国へ撤退させた。大敗である。

国人ら旧里見家臣の離反があった。土気氏、東金氏も里見氏に従属。
永禄12年3月、後北条氏の影響力を失った正木時忠も里見氏へ帰参。
真里谷領など上総南半分を失った。
佐竹氏と上杉氏が同盟。※このころ南常陸の小田氏ほかの帰順により領土を拡げたが、小田氏は永禄12(1569)年に佐竹氏に大敗、佐竹氏の勢力を拡大させた。
甲相同盟決裂。これにより上杉氏・里見氏に同盟を申し入れることになる。里見氏は拒否し、武田氏・佐竹氏と同盟を結ぶ。越相同盟がかろうじて結ばれる。


●第2次関宿合戦――
永禄11(1568)年8月、氏康は前回の敗戦を反省し力攻めはやめ、次男 氏照に関宿城を包囲し時間をかけて攻撃するよう命じた。氏照は関宿城と川を挟んだ対岸に砦を築いた(五霞町山王山)。
永禄12(1569)年6月9日、越相同盟締結。この同盟の条件のひとつに関宿城攻撃の中止が盛り込まれていた。※落城寸前まで追い込めていたという。調停中の5月7日に氏照はその旨の書状を受けている。
同年8月、義氏は修復の終わった古河城へ入った。

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