上田城(上田市営 上田城址公園)
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東虎口櫓門。
mixi記事コピペ――2015年03月20日 11:20
15.03.17.
尼ヶ淵城、真田城
築城年、天正11(1583)年
築城主、真田昌幸
城主、真田昌幸、仙石氏、藤井松平氏
廃城年、明治7(1874)年
国指定史跡。
(→wikiコピー)関ヶ原の合戦にて、真田昌幸、信繁が属した西軍が負けたため、上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められた。江戸時代には上田藩の藩庁が置かれ、真田氏が信濃国松代へ転封された後は仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建した。仙石忠政により、本丸は櫓7棟、櫓門2棟、それらをつなぐ塀が再建され、二の丸にも櫓や櫓門を再建するための櫓台なども再建されたが、仙石忠政の突然の病死により再建は中断され、そのまま幕末を迎えた。現在ある本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。
真田昌幸時代の上田城について正確な構造は、わかっていないが、堀底の発掘調査により、真田氏時代と想定される金箔瓦や、菊花文軒丸瓦、金箔鯱の破片などが出土したことから、仙石氏が再建した上田城より絢爛豪華な城郭だった可能性がある。(wiki←)
徳川2代の怨恨により上田城は徹底的に破却され、現在観る上田城の遺構のほとんどは仙石氏築城の末のもの。まして上田という町を築き発展させたのは仙谷氏を土台に藤井松平氏であって真田氏ではない(むしろ破壊したのが真田氏だと教わった)。それを蔑ろにして真田氏を、真田信繁ならぬ幸村ばかりをプッシュするのはいかがなものか。
まったく。まったく┐(`皿´≡`皿´)┌
実は昌幸築城の上田城の正確な位置も確証はないとか。現代、観光地化が進み、近年はゲームほかの流行りもあってますます情緒が薄れたように思う。
不愉快です(○°ε°○) (cv.種田梨沙)
巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing
アルバム: 長野県2 上田市(東信)/信州
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コメント (1)
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ちょいちょい遭遇します。被写体たる史跡の前に陣取って座り込む観光者。ジンガイに特に多いけど……不快さを覚えるのは日本人の方なんだよなあ……┐(´Д`)┌
2015年3月28日 11:32 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)
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