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田端(たばた)

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写真: 田端(たばた)

写真: 駒込(こまごめ) 写真: 西日暮里(にしにっぽり)

#172 山手線/JR東日本
←にしにっぽり (東京都北区) こまごめ→

山手線と京浜東北線が分岐し乗換駅としての役割の強い駅。古くは日本鉄道土浦線(現在の常磐線)の起点でもあった。常磐線はもともと常盤炭田の石炭を輸送することを目的に開業した線路であり、貨物列車を新宿経由で東海道本線に乗り入れるためにこの駅を起点としていた。
のちに上野まで乗り入れるようになり、その際にスイッチバックをする必要があったため、1905年に田端を経由せずにそのまま上野まで乗り入れられる線路を引いた。これが現在の三河島〜日暮里間であり、不自然なカーブを描いているのはこのためである。以降、田端までの線路には旅客列車は乗り入れなくなり、貨物列車が走る支線として現在も使われている。

駅舎は北口と南口で大きく違い、田端信号所やJR東日本東京支社のある北口は橋上駅舎だが南口は小さく狭い駅舎で、「東京のしかも山手線の駅なのにこんな田舎みたいな駅舎なのかよ」とネタにされることもしばしば。

田端はそのほか、文豪や芸術家たちが住んでいた地として有名。いわゆる「文士村」を形成したきっかけは画家の小杉方庵(こすぎほうあん)が1901年に、陶芸家の板谷波山(いたやはざん)が1903年にこの地に住み始め、その縁から著名な芸術家が田端に集まり始めたことにある。この時はまだ芸術家が多く住み、文士は居なかったのだが、縁があって1914年に芥川龍之介が、1916年に室生犀星が田端に住み始めると、この2人を中心人物に萩原朔太郎や菊池寛、堀辰雄などの著名な詩人、小説家が次々に住み始め、「文士村」として様々な文士がこの地で交流し高めあってきた。

しかし1927年、中心として活躍していた芥川龍之介が自殺。それを受けてか翌年には室生犀星も田端を離れ馬込に移り住んだ。この事件によって文士村は衰退の一途をたどり、1945年に第二次世界大戦で田端も空襲を受けて止めを刺された。

現在田端は普通の住宅街であるが、かつてこの地で活躍した文士や芸術家の功績を次代に継承していく施設として田端文士村記念館がある。アクセスは北口から徒歩2分。
ホームページ:http://www.kitabunka.or.jp/tabata/index.html

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