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ロバート・キャパが地雷に触れて爆死 1954年5月25日

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Photos: ロバート・キャパが地雷に触れて爆死 1954年5月25日

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【ロバート・キャパ(Robert Capa)】(1913年10月22日 - 1954年5月25日)
ハンガリー生まれの戦場カメラマンで、20世紀を代表する報道写真家。
スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ、第一次中東戦争、第一次インドシナ戦争を舞台に活躍した。
後に、ロバート・キャパの名前を確立したのは、本名アンドレ・フリードマン(仏語読み)。
ハンガリーのブダペストで、ユダヤ系の家に生まれる。
1919年に福音派の学校に入学、1931年に共産党活動容疑で逮捕されている。
釈放後はドイツのベルリンで写真通信社「デフォト」の暗室係となる。

1932年、フリードマンの名が最初に知られることになった写真が世に出る。
それは、スターリンによってソ連を追放されたレフ・トロツキーの、デンマークでの演説をとらえた写真で、迫力のある表情を収めた写真は高い評価を得た。
しかし、ドイツでヒトラーが政権をとると、1933年にはユダヤ人排斥が激しくなり、母と弟はアメリカへ亡命した(父デジェーはブダペストに残ったが、その後の消息については不明)。
フリードマンもベルリンを脱出し、ブダペストでヴェレシュ旅行社のカメラマン、翌年にはフーク・ブロック通信社の臨時雇いとなる。
後にパリに移り住み、再びカメラマンとしてゼロからスタートを切ることになった。


【二人のロバート・キャパ】
フランスのパリに拠点を構えたものの、フリードマンの写真は売れず、売れたとしても安値で満足な生活をできるほどの収入はなかった。
この頃、フリードマンは同じようにドイツから亡命してきたユダヤ人女性、ゲルタ・ポホリレと出会う。フリードマンは暗室で現像・焼き付けを担当する事務所を開設し、彼女は秘書兼営業を担当した。
1936年、彼女も報道写真家の資格を得ると、彼女とフリードマンは計画を練った。
それは裕福な出身のアメリカ人写真家ロバート・キャパという架空の人物を作り上げ、フリードマンとアンドレの作品を、そのロバート・キャパの作品として売ること。
これは、当時のヨーロッパで強まっていた政治的狭量を乗り越えるには有利となり、アメリカ市場で良い収入を得るにはふさわしい名前だった。この画策の秘匿は長くは続かず、すぐにバレることになるが、フリードマンは「ロバート・キャパ」の名前にこだわり続け、ついには本名とするになる。


【ゲルタ・ポホリレ】
フリードマンとゲルタ・ポホリレは恋に落ち、公私に渡るパートナーとして、ロバート・キャパの名による作品の共同撮影者となる。
ゲルダは、仕事用の名前として、アンドレと親交のあった岡本太郎にちなみ、ゲルダ・タローを名乗った。
彼らは、1930年代のフランス人民戦線政権成立の出来事を共に取材している。

1937年7月25日、タローはスペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かったが、混乱に巻き込まれ、後退する道の途中で重傷を負った。直ちに共和国軍の野戦病院に担ぎ込まれ、緊急手術を受けたものの、翌7月26日に死亡した。


【「崩れ落ちる兵士」】
フランスの写真週刊誌『ヴュ』。
1936年9月23日発刊号に、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルで、彼らの写真が採用され、翌年、その写真が、大きな発行部数を誇るアメリカのグラフ誌『LIFE』に掲載された際、撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記されていたことで、この名が一躍有名となった。
いわゆる「崩れ落ちる兵士」と呼ばれている写真。

::::  [崩れ落ちる兵士]で画像検索  ::::

しかし、この写真は近年の研究で、実際の戦場を撮ったものではなく、さらに被写体は死んでいない。また撮影者自体もフリードマンではなく、タローによるものとする指摘がされている。

まず、この写真が撮影された日時と場所(アンダルシア地方)の小さな丘では、戦闘は起きていなかった。つまり、この写真は「足をもつれさせた兵士」だった。

次に、わずかに異なるアングルから1秒弱のタイミングで撮られたもう一枚の写真が確認され、二枚が異なるカメラで撮られたことが明らかになっている。
被写体との距離とカメラのフレームの形などから、この「崩れ落ちる兵士」を撮影したカメラは、フリードマンが持っていたライカではなく、タローが持っていたローライフレックスである可能性が高いことが明らかになっている。


【ロバート・キャパとして】
1938年、初の写真集「生み出される死(Death In The Making)」を発表。
同年、日中戦争を取材。
1939年、アメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。
1940年、メキシコに数ヶ月滞在し大統領選を取材。
1942年、『コリアーズ(英語版)』の特派員としてロンドンに渡る。
1943年、北アフリカ戦線、イタリア戦線を取材。その後、『ライフ』と契約。
1944年、ノルマンディー上陸作戦を取材。第1歩兵師団第16連隊第2大隊E中隊に従軍。
最大の戦死者を出したオマハ・ビーチにてドイツ軍と連合軍が入り乱れる中、100枚以上の写真を撮影するが、暗室助手が乾燥の際にフィルムを加熱しすぎて、感光乳剤を溶かす。
まともな写真として残ったのは、10枚前後となってしまった。
この事故は、後に彼の写真著書『ちょっとピンぼけ』のタイトルに反映されたという。
8月、パリ解放を撮影。
同年12月のバルジの戦いを経て、1945年の終戦まで取材した。

戦後1946年、アメリカ市民権を獲得。イングリッド・バーグマンやピカソら著名人を撮影。
1948年、イスラエルの建国と第一次中東戦争を取材。
中東での取材中、彼のすぐそばを銃弾がかすめ、それ以降、戦場へ行くことはなくなる。


1954年、写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で。毎日新聞社から招待され来日。
日本でのスケジュールを終える前に、『ライフ』から、一時帰国するベトナムで取材中のカメラマンの代役にとの取材依頼を受け、周囲が引き止めたにも関わらず、ベトナムへと向かう。

5月25日午前7時、ナムディンのホテルを出発。
タイビン省のドアイタンにあるフランス軍陣地に向かい、午後2時30分頃ドアイタンに到着。
午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。










写真は、ちょっとピンぼけ (Slightly out of Focus)の街風景。


1521年、ポルトガルの探検家マゼランは、ヨーロッパ人として初めてグアム島に到達。
1565年、グアム島は、スペインが領有を宣言し植民地され、スペインの大型船ガレオン船が太平洋を往来、チャモロ(ミクロネシア、マリアナ諸島の先住民)と物々交換を始める。

1668年には、スペインのカトリック教会イエズス会が布教活動のため訪れるようになる。
しかし、宣教師は祖霊崇拝を始めとするチャモロ人の伝統的な習慣や文化を厳しく禁止し、チャモロ人の不満は、1669年のスペイン・チャモロ戦争に発展する。
キリスト教に反抗的な村は全て焼き払われ、10万人いたとされるチャモロ人は5,000人以下に激減。以降、目立った反抗は無く、キリスト教文化が定着するようになったというグアム。


そんな、白人の侵略による戦場ともなったグアム島にて撮影したピンボケ写真。

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