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第四次鎖国令を布告(江戸幕府) 1636年5月19日

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Photos: 第四次鎖国令を布告(江戸幕府) 1636年5月19日

Photos: ジーンズ発祥 1873年5月20日 Photos: 社会主義政党が結党(日本初) 1901年5月18日

【鎖国】
江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策であり、一般的には1639年
(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結まで
の期間を「鎖国」と呼ぶ。


【鎖国完成まで】
第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成している。

1612年(慶長17年)幕領に禁教令(キリスト教)
1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。
1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
1633年(寛永10年)〈第1次鎖国令〉奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留す
     る日本人の帰国を禁じた。
1634年(寛永11年)〈第2次鎖国令〉第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)〈第3次鎖国令〉中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。
     東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。

1636年(寛永13年)5月19日(新暦6月22日)
     〈第4次鎖国令〉貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)
     287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。

1637年~1638年(寛永14年~15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
1639年(寛永16年)〈第5次鎖国令〉ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガ
     ルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[参考 9]。
1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名
     を処刑。
1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川
     家康の朱印状が否定される。
1644年(正保元年)中国にて明が滅亡、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。
     明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。
     以後、ポルトガル船の来航が絶える。
1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上オランダ
     以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。


【なぜ、鎖国を行ったのか】
大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大
陸などへの植民地主義的な海外進出が行われていた。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、羅針盤の発明等、
航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って
海に乗り出して行く。文化交流、交易、また、キリスト教布教の名のもとに、未開の地を見つけ
ては、交易品を求めて進出をする。しかし、その地の豊富な資源に目を付けると、原住民を牛馬
のように酷使して略奪の限りを尽くす。そして自国の領土に加え、原住民からは富を収奪する。
そんな「進出」。

日本には1543年、ジャンク船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着して、鉄砲を伝えている。
また1549年には、ポルトガル王の依頼で、フランシスコ・ザビエルよって日本に初めてキリス
ト教が伝えられた。

16世紀における侵略の先進国のスペイン、ポルトガルの手口は「鉄砲と十字架」だった。
日本においても、早くもこの二つが揃った。

当初、織田信長の頃は欧州からの珍品に目を奪われたせいもあり布教を放任していた。
しかし豊臣秀吉の時代になると、宣教師たちが実体が見えてくる。それは、布教目的だけでは
なく、母国の植民地政策の回し者の姿だった。
そして、日本人たちを奴隷として母国に拉致するトラブルが相次いだ。事態を重く見た秀吉は
キリスト教禁止に踏み切り、幕府もこれを引き継ぐことになる。

また、中央集権化が進んでいない時代に、徳川幕府が貿易を独占するため、一部の地域を除い
て海外との取引を出来なくする目的もあったという。



こうして、江戸幕府になり三代将軍徳川家光が鎖国令を布告した。


【開国までの動きと鎖国の終焉】
18世紀後半から19世紀中頃にかけ、ロシア帝国、イギリス、フランス、アメリカ合衆国などの
艦船が日本に来航し、交渉を行ったが、日本はその多くを拒否してきた。

19世紀半ば、白人の世界侵略は、アフリカ、中南米、アジア、太平洋地域を獲りつくし、残り
は「極東アジア」のみとなっていた。
アメリカは太平洋を東から西へと侵略の手を伸ぼし、ハワイ、フィリピンをすでに手にした。
ロシアは沿海州まで獲得し、日本海を隔て、日本に向ぎ合うところまで来ている。英仏は既に
中国の分割を開始していた。日本、朝鮮、中国、満州をどこが獲るか、興味はその一点にかか
っていた。

1853年7月8日浦賀、アメリカからのマシュー・ペリー率いる黒船の来航は、こうした中で起き
た。

翌1854年3月31日、日米和親条約が締結され、ついに開国へと至る。
その後、日米修好通商条約(1858年)を初めとする不平等条約が続々と締結され、「鎖国」は
終焉した。

さて、アメリカの目的は・・・






写真は、海賊のブランコ。
「ブランコ」は、ポルトガルからの外来語だとか。
てっきり、「ぶらーんこ・ぶらーんこ」する日本語だと思っていたのだが・・・

そして、ポルトガルといえば・・・・
http://photozou.jp/photo/show/2506004/222753706

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