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百花斉放百家争鳴 1956年5月2日

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Photos: 百花斉放百家争鳴 1956年5月2日

Photos: 三河島事故 1962年5月3日 Photos: エンパイアステートビルが完成 1931年5月1日

1956年5月2日、毛沢東は最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「百花斉放
百家争鳴」を提唱した。
「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争しよう」と権力者側がそれを提唱し、批判も歓迎
するとしての始めた運動で、日本語では「ひゃっかせいほうひゃっかそうめい」と読む。

この「百花運動」は、党中央宣伝部長らに担当させ、国内の知識人への参加呼びかけを行った
が、当時は他の「密告による横領防止運動」や、左翼作家、胡風に対する言論の弾圧事件など
もあって、知識人達の警戒心も強く、自由に意見を言うことは憚られ、あまり盛り上がる事が
なかった。
そこで、1957年2月27日毛沢東は「民主的諸政党」の代表者や中国共産党の幹部を呼び、最高
国務会議を招集して、改めて中国共産党に対する批判を呼びかけた。
さらに1957年3月6日から13日にかけては全国宣伝工作者会議でも、中国共産党に対する批判
を呼びかけた。





つまり、これを会社で例えると・・・、ある忘年会で、総務部長からのこんな挨拶があった。
『本日の忘年会では社長からこのような提案がありました。この忘年会では、わが社の今後の
発展の為にも、皆さんが日頃から思っている率直な意見を直接聞かして頂く場としたい。
例え、それが耳の痛い話であっても、是非積極的に発言をして頂きたいと・・・・・・・』

しかし、社長に対して会社の批判を行うなど、かなりの勇気が無ければできるものではなく、
なかなか社長が思うような意見交換の場にならない。やがて、社長にも社員にも酔いが回り、
社長は社員たちにこう言った。『みんな今日は無礼講だ!なんの気兼ねもせずに、日頃から
思っていることを話しなさい。腹の底から出し切ってスッキリさせようじゃないか!そして
今日は、楽しく飲んで盛り上がろう!がっはっは!』と。





しかし、これを受けて国民は様々な意見を発表したものの、百花運動の方針は間もなく撤回さ
れ、結局、共産党を批判した者は、その後の反右派闘争で激しく弾圧されることになった。
つまり、社長の言葉を真に受けて、本音を吐いた社員たちは、その批判を根に持った社長の怒
りに触れ、翌春の人事異動では左遷、降格などの処分を受けた様なモノだった。


【百花運動の始まる時代的背景】
中華人民共和国は1949年にソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンの協力を得て建国され、
毛沢東による独裁体制を布いた。
その後、1953年にスターリンが没すると、後を継いだニキータ・フルシチョフが、1956年に
スターリン批判を始め、毛沢東独裁体制を貫こうとする中国とソ連との間に対立の可能性が生
じてきた。毛沢東の権威が、やや揺らぎを見せた時期に、この運動は提唱された。
毛沢東が、このような運動を始めた理由は諸説あるものの定説は無く、日本では、周辺国との
対立を前に、国力を増すための手段の一つとして実施されたとの見方が有力視されている。
また、中国では、毛沢東が自らの権威が揺らいでいると考え、国内の「民主的諸政党」や知識
人に対して党の官僚主義を批判することを求め、劉少奇や鄧小平らの力を削ごうとした。
さらには、毛沢東が反対派を炙り出すための、巧みな罠だったと断定する見方もある。


【百花運動の流れ】
1957年3月6日から13日にかけての全国宣伝工作者会議において、毛自身による中国共産党に
対する批判呼びかけの後、知識人の間で中国共産党に対する批判が徐々に出始める。
時が経つとともに、その批判は強烈なものに変わってゆき、共産党によるが中華人民共和国の
支配にも異を唱え始め、毛沢東の指導力まで公に批判されるようになった。
共産党幹部の一人は「朝鮮戦争を始めとする外国への援助のばらまきをやめよ」と述べた。
また「工業生産高のような情報さえ国家機密にしている現状を改善せよ」との要求する者も出
現し、挙句の果てに、党の機関紙である人民日報も党を間接的に批判するようになった。

運動は地方でも行われ、内蒙古大学のある教授は「モンゴル民族は固有の文化を持っており、
むやみに漢化すべきではない」とも主張した。

1957年5月15日、毛沢東は批判続出の事態に危機を感じ、新聞に対しては、党の批判とあわせ
て「右派」に対する批判も行うように奨励し、党中央宣伝部長の胡喬木に対しても「右派」を
批判する準備を行うように命じた。
ただし「右派らは有頂天になっている。まだ釣り上げてはならない」とも述べ静観した。

1957年5月23日、北京大学の学生らは、教員学生集会で「胡風など中国政府に捕らえられてい
る作家は、人民政府の矛盾の犠牲になっている」と批判。


このあたりから、毛沢東は反撃に転じる。
1957年6月8日、人民日報は「右派分子が社会主義を攻撃している」という毛沢東が執筆した
社説を掲載。

1957年6月19日、人民日報に「毛沢東が2月27日に行った演説を転載した」とされる記事が掲
載された。それは毛沢東が行った演説を改変されたもので、2月27日に行った「党に対する批
判」を奨励する演説ではなく、その批判に様々な制約を付けたものに変わっていた。
これによって、党を思い切って批判した知識人たちは、毛沢東に社会主義政権破壊を画策した
「右派」というレッテルを貼られ、知識人の粛清運動である反右派闘争が始まった。
以後、1976年に毛沢東が死ぬまで、中国では自由な言論が許されることはなかった。


【第二次 百花斉放百家争鳴の挫折】
1986年5月当時、総書記であり中国国家での言論の自由化浸透を望んでいた胡耀邦により、再
提唱が試みられる。しかし、同年9月に開催された六中全会にて保守派と長老グループにより
棚上げされ、翌1987年1月16日の政治局拡大会議に失脚した事で実現は叶わなかった。

胡耀邦
http://photozou.jp/photo/show/2506004/217327797











写真は、春の訪れとともに百花繚乱の、市川市は郭沫若記念館の庭園。

郭沫若
http://photozou.jp/photo/show/2506004/172737960


新社会人の皆さんは、上司や先輩から「無礼講」と言われても、そんな時ほど節度のある
接し方をした方が良いですよ。くれぐれもご用心を。

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