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シンドラー生誕 1908年4月28日

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Photos: シンドラー生誕 1908年4月28日

Photos: 習志野原を命名 1873年4月29日 Photos: ネルソン・マンデラが大統領に就任 1994年4月27日

【シンドラーのリスト】
1993年に、ユダヤ系アメリカ人であるスティーブン・スピルバーグ監督が、トーマス・キニ
ーリーの小説をもとに映画化。
リーアム・ニーソンが、オスカー・シンドラーを演じた。
映画は、第66回アカデミー賞で12部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、
編集賞、美術賞、作曲賞の7部門を受賞した。


【オスカー・シンドラー】(1908年4月28日 - 1974年10月9日)
メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家。
第二次世界大戦中、ドイツによって強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工
場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。

青年期のシンドラーは、快楽主義者の遊び人、プレイボーイのライフスタイルを楽しみ、美
食家、一流品好み、金遣いの荒い快楽主義者の見本のような人間であったと言われる。
毎日違うデザインの高級スーツに着替えては、仲間と飲み歩き、女性たちからも、もてはや
され、金を湯水のように使っていた。

1927年秋には、裕福な農場経営者の娘、エミーリエ・ペルツルと知り合い、翌年3月6日に
は式を挙げた。
20歳、ほとんど一目ぼれ状態で結婚したものの、直後からの絶え間ない浮気、嘘、裏切り、
借金・・・。しかも、エミーリエとの間に子供はできず、父の秘書だったアウレリエ・シュ
レーゲルを愛人にして、彼女との間に一男一女の私生児を儲けている。

1935年から、コンラート・ヘンラインのズデーテン・ドイツ郷土戦線に入党した。ここを通
じ、その諜報員としての活動をすることになる。後に、諜報活動が露見、チェコの鉄道内部の
秘密情報を漏らしたことの大叛逆罪で死刑の宣告を受けるが、1938年10月、ドイツのズデー
テン併合があり、ドイツによって刑の執行は中止された。

1939年2月10日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に志願して入党。
同じ年、ドイツのポーランド侵攻に合わせ、戦争での一儲けを狙ってポーランドのクラクフ
にやってくる。
1939年10月、没収前にユダヤ人の所有になっていた、落ちぶれた琺瑯(ホーロー)容器工場
を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けなが
ら、闇商売で資産を拡大していく。
ナチスの幹部には賄賂で近づき、ゲットー(周囲から隔離されたユダヤ人居住区)に移送さ
れていたユダヤ人の労働力を利用して経営も軌道に乗っていった。
この工場は、1942年末までに巨大な琺瑯容器工場にして、軍需工場hrと成長していった。
45,000?の敷地に800人近い労働者を雇い、その中にはクラクフ・ゲットーのユダヤ人370
人もいた。

シンドラーのユダヤ人救済において、大きな力となったのは、彼の工場が軍需工場だった為、
ポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたこと。
これにより、彼は大きな利益のある契約を締結出来ただけでなく、親衛隊の監督下にあった
ユダヤ人労働者を要求できた。これらの労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張するこ
とで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけが可能だ
った。
しかし、規則違反やユダヤ人に対する優遇の嫌疑をかけられ、たびたびゲシュタポから事情
聴取を受けることもあったという。

1943年3月、クラクフのゲットーは解体され、ユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ
強制収容所へ移送された。
シンドラーと、残忍で知られる強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートは、飲み仲間
でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための比較的快適な生活条件を提供し、
貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。食糧は、シンドラーがすべて闇市
場で調達した。また、収容所の親衛隊の警備兵たちは、秘密保持の為、工場敷地内への立ち
入りを禁止された。

1944年末、プワシュフ強制収容所は、ソビエト連邦の赤軍の侵攻により、収容施設の解体を
余儀なくされ、ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。
シンドラーは、ズデーテン地方ブリュンリッツで新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」
を継続し、そのための労働者を連れていくという許可を、ドイツ軍の司令官から得た。

シンドラーは、グロース・ローゼンの収容所から人々を助け出しに駆けつけ、ユダヤ人1人当
たり1日につきゲシュタポに7マルク支払うことを約束し、彼らを助け出すことに成功した。





1945年5月8日、シンドラーの元にあったユダヤ人たちから彼に一つの指輪が贈られた。
この指輪は、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが感謝のしるしに、彼らが唯一持って
いた本物の金歯から作られたもので、「一人の人間を救う者は世界を救う」
- タルムードにあるこの言葉が、贈り物の指輪に刻まれた。


【戦後】
企業家としてのシンドラーは、戦後は不運に見舞われた。次から次に事業に失敗、資金繰り
で奔走しているシンドラーの噂は、彼が救ったユダヤ人たちにも伝わり、彼らはシンドラー
をイスラエルに招待した。
この時からシンドラーは、年の半分を彼が隠居生活をしているフランクフルトで過ごし、他
の半分をエルサレム在住の、彼が救ったユダヤ人たちの下で過ごすことになる。
そして、そのような生活は彼が1974年にドイツのヒルデスハイムで死ぬまで続くことになっ
た。

彼の墓は、彼自身の希望によりエルサレムの、ローマ・カトリック教会墓地にある。






ユダヤ人を救うきっかけ、それは「彼らがいなくなると工場を閉鎖しなければいけなくなるか
ら」との、経営者目線、損得感情からの、些細で利己的な始まりだった云う。
やがて、無力なユダヤ人住民たちに対する扱い方に異を唱え、損得勘定の経済的な理由は、出
来るだけ多くのユダヤ人を救済したいという願望のへと変化していった。そして、最後には、
全財産を、この目的のために投げ出すだけでなく、自分の命まで賭けようとした。


映画のワンシーンで、真夏の炎天下に白いスーツで正装し、周囲の人間と談笑している姿があ
った。妙にかっこよく、そんなスタイルを真似させてもらったりもした。
真夏でも長袖のシャツを着て上着を羽織る。長袖のシャツは、上着と肌の接触を防ぐので嫌な
ベトツキを感じない。また、電車内の冷気をある程度の時間、肌との間に閉じ込めてくれる。
そして、上着は太陽の直射光をカットしてくれるので、通勤でも意外と清々しかった。

そのシーンは、多くのユダヤ人が貨車に詰め込まれ、どこかの収容所に移送されるシーンだっ
たと記憶している。彼は「あー暑い暑い」と言いながら、水道のホースを持って貨車の中にい
るユダヤ人に水を浴びせ始めた。まるで子供が水遊びをするように、無邪気に楽しげに、そし
て水を浴びせられているユダヤ人達を嘲笑するかのように。
(猛暑の中、貨車に詰め込まれたユダヤ人にとって、水を浴びせられるのは救いとなる)
しかし、このような振る舞いをしなければ、彼自身が危険だったのだろうと思う。実際にユダ
ヤ人への優遇に嫌疑もたれ、度々ゲシュタポ から事情聴取を受けることもあったのだから。







写真は、首都高速道路「永福PA」に設置されているエレベーター。
最近は「シンドラー」と聞くと、「エレベーター」を連想する人が多いかもしれない。

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Comments (2)

  • 「シンドラーのリスト」は何回見ても泣けます
    混沌とした時代の人間の残酷さや愚かさ、色々な感情がこみ上げます

    04-29-2015 17:06 unsubscribed user

  • 熊野牟 秀太

    彼の行動には、いろいろな見方もあるようです。また、妻エミーリエ・ペルツルの功績も大きいと聞きます。ただ彼の存在が無ければ、1,000人を超えるユダヤ人の命が無かったことも事実でしょう。あの映画は、やはり何度観ても涙が出ますね。

    04-29-2015 18:16 熊野牟 秀太 (16)

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