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ネルソン・マンデラが大統領に就任 1994年4月27日

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写真: ネルソン・マンデラが大統領に就任 1994年4月27日

写真: シンドラー生誕 1908年4月28日 写真: JR福知山線脱線事故  2005年4月25日

南アフリカ共和国で、初めて全人種が参加する選挙が行われアフリカ民族会議が勝利する。
この選挙でネルソン・マンデラ氏が大統領に就任。
南アフリカで初の黒人政権が誕生した。

【南アフリカ共和国】
アフリカ大陸の最南端に位置している。共和制国家であり、イギリス連邦の加盟国でもある。
「アパルトヘイト」と呼ばれる有色人種に対する合法的な人種隔離政策(人種差別)で知られる国家だったが、ネルソン・マンデラ氏の大統領就任により、その制度は撤廃された。
金やダイヤモンドの世界的産地であり、アフリカ最大の経済大国。また、アフリカでは唯一のG20参加国でもある。
2009年の推計によると、人種の割合は黒人 (79.3%)、白人 (9.1%)、カラード(混血)(9.0%)、インド系(印僑)(2.6%)で構成されている。


【歴史】
紀元前数千年頃から、狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と、同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット)が居住。後に赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下、現在の南アフリカに定住した。やがてヨーロッパで大航海時代が始まると、1488年にポルトガル人がアフリカ大陸南端の喜望峰に到達。
1652年、オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが、この地に到来。
以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。
この植民地で形成されたボーア人の勢力が拡大され、先住アフリカ人のサン人やコイコイ人との争いが起きる一方で、新たに入植したボーア人と先住民や奴隷との混血も進み、後にカラードと呼ばれる民族集団が生まれた。

18世紀末には金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来する。ボーア人とイギリス人は対立をする事になるが、1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード将軍がケープタウンを占領。19世紀初頭には、ケープ植民地がオランダからイギリスへ譲渡されイギリスの植民地となった。

植民地では英語を公用語とし、同国の司法制度が持ち込まれるなど、次第にイギリスの影響が強まると、英語を解さないボーア人は、二等国民として差別され、ボーア人は自らを「アフリカーナー」と呼ぶようになる。
その後、イギリスとの対立から二度にわたる戦争に発展、その第二次ボーア戦争(1899年 - 1902年)での敗北により、南アフリカは、ほぼ完全にイギリスに支配された。

1910年、四州からなる南アフリカ連邦として統合、イギリス帝国内の自治領として、「アフリカーナー」の自治を確立した。翌1911年には白人労働者保護を目的とした、最初の人種主義法「鉱山・労働法」が制定される。
1931年、ウェストミンスター憲章が採択、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得、1934年にはイギリス国会において正式に主権国家として規定された。

1948年、アフリカーナーの農民や都市の貧しい「白人」を基盤とする国民党が政権を握ると、国民党は、アパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。
国際連合の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抵抗を無視、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった。
1958年、次期首相が就任すると、1960年代から1980年代にかけて、さらに強固なアパルトヘイト政策を敷く。一方で、人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議による、民族解放運動が進み、国内ではゲリラ戦も始まる。1961年には、イギリスから人種主義政策に対する非難を受け、イギリス連邦から脱退。立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を「南アフリカ共和国」と定めた。

1980年代には反体制運動がさらに激しくなり、それまでの反共的姿勢から南アフリカを優遇してきた西側諸国からも国際的な経済制裁を受け、国内外での反アパルトヘイト運動は高まりを見せてゆく。
当時のデ・クラーク大統領は冷戦の終結した1990年代に入り、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下す。

1994年4月27日、同国史上初の全人種参加の総選挙が実施され、アフリカ民族会議 (ANC)が勝利。ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領にはANCのターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラーク元大統領が就任。アパルトヘイト廃止に伴い、イギリス連邦と国連に復帰。1996年、新憲法が採択され国民党は政権から離脱した。


【大航海時代】
15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。
白人が行うアフリカ、アジアへの侵略は「進出」になるので注意が必要。


【ボーア人】
オランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団。


【ネルソン・マンデラ】
若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。
27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放。翌1991年、アフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。
デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。
1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て同国大統領に就任。
1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。

2013年12月5日(日本時間6日未明)、ヨハネスブルグの自宅で死去。 95歳没







写真は、日本の選挙ではお馴染みの「選挙用ポスターの掲示板」

とっても、平和感が漂っている。

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