Help

東京渡辺銀行が破綻と答弁(片岡蔵相) 1927年3月14日

  • 2
  • 360

Photos: 東京渡辺銀行が破綻と答弁(片岡蔵相) 1927年3月14日

Photos: さん・いちご事件 1928年3月15日 Photos: 大平正芳(元内閣総理大臣) 誕生日 1910年3月12日

1923年に発生した関東大震災で決済不能となった手形についてはモラトリアム(手形の決済、預金の払い戻しなどを一時的に猶予)令が出され、のちに日銀が手形の再割引(震災手形)、を行ったが、その多くが焦げ付き、金融不安も広がっていた。

1927年3月14日、衆議院予算委員会の中で片岡直温蔵相は、
『・・・現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました、是も洵(まこと)に遺憾千万に存じますが・・・』と、「失言」とされる発言をした。
これをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け(預貯金の取り戻し)騒ぎが発生、渡辺銀行は、まだ破綻していなかったが、発言の翌日から休業となり、姉妹行の「あかぢ貯蓄銀行」と共に経営が破綻した。


【東京渡辺銀行】
1877(明治10)年、第二十七国立銀行として設立。1904年(明治37年)に二十七銀行と改称。
1920(大正9)年2月、好況期に行名を東京渡辺銀行と改称し、500万円に増資した。しかし、放漫経営が長く続き、関東大震災(1923年)後には極端に経営が悪化。1927年3月14日の第52回帝國議会、衆議院予算委員会での審議の始まる直前に、当日決済分の資金繰りに困り果てた渡辺六郎専務らが、大蔵次官の田昌(でん あきら)に陳情し、「何らかの救済の手当てがなされなければ、本日にも休業を発表せざるを得ない」と説明した。


【片岡発言の経緯】
渡辺銀行の専務は、「救済を求める意図」で陳情しに来たという。しかし、大蔵省側では従前の調査により銀行の内情が悪いことを把握しており、休業の報告に来たものと理解した。
田次官は、対応を片岡蔵相に相談すべく議場に赴くが、大臣は審議中で直接会うことができず、事情を書面にしたため大臣に言付けた。

このとき開かれていた予算委員会では、野党が震災手形処理方法も絡め苦境に陥っている銀行の処理策を問い質し、震災手形を抱える不良銀行や、業績の悪い企業の名を明らかにするように求めていた。

これに対し片岡蔵相は、個々の企業の状況を明かすことは信用不安に繋がると危惧しながらも、いたずらに原理原則論をもって審議を長引かせることは対応を遅らせ、さらに状況を悪化させるとの判断から、その中で直近の破綻銀行を例示するにあたり、次官から差し入れられた書面にあった銀行名から上記の発言をした。
大臣の発言は、ただちに新聞社に伝わり翌日に報道された。また、議会でのやり取りを直接伝え聞いた預金者が終業間際の東京渡辺銀行に殺到し、取り付け騒ぎとなった。


【影響】
一方で東京渡辺銀行は、大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったので改めて金策に走り、資金を手当てに成功し、当日の決済を無事に済ませていたが、結局翌日から休業することを決定した。渡辺銀行は、依然危機的経営状況を脱したわけではなく、いずれ休業は避けられない状況にあり、蔵相の失言を休業の責任転嫁に利用しようとした見方もあるが、真相は不明となっている。

東京渡辺銀行が突如休業したことが報道されると、金融不安はさらに広まり、関東を中心に他の銀行でも取り付け騒ぎが起こった。当初は震災手形を多く所有していると目された銀行が取り付けに遭い、次第に関西にも飛び火して、中井銀行・左右田銀行・八十四銀行・中沢銀行・村井銀行が休業を余儀なくされた。

これに対し日銀が21日より非常貸出を実施して沈静化に勤めた。
22日、片岡蔵相と市来乙彦・日銀総裁は資金融通の声明を発表。
23日、日銀は一晩で5億円超の非常貸出しを行うも、あまりの取付けの勢いに造幣が間に合わず、急遽片面印刷(裏面は真っ白)の紙幣を店頭に積み上げて、取付預金者に応戦した。

議会では、野党側が片岡の責任を問い、国会は紛糾して乱闘騒ぎにまで発展するが、法案自体は「台湾銀行の整理」という付帯決議をつけて23日に貴族院を通過し事態は沈静化し、26日に帝国議会は閉会。第一次昭和金融恐慌(三月の恐慌)は、とりあえず終息した。


【その後】
3月の取り付け騒ぎは収まったものの、依然として台湾銀行が多くの震災手形を抱え、その他にも経営が危うい銀行が多いことに変わりはなかった。
4月になると、鈴木商店、台湾銀行などの休業が相次ぎ、第二次昭和金融恐慌(四月の恐慌)となった。このことは、後の帝人事件にも発展して行く。
http://photozou.jp/photo/show/2506004/219607055


【震災手形】
関東大震災のため支払いができなくなった手形、特別に震災手形と呼ばれるものが出回ったのではなく、一般に流通する手形で被災地に関わるものだけが、緊急勅令によるモラトリアムや法令により日本銀行が再割引をすることで補償の対象となり、「震災手形」と呼ばれた。
しかし、真に震災を直接の原因とする危険な手形が避けられる一方、手形の中には形式上は担保も備えているが実際は投機の失敗で支払いの見込みの無い、悪質な手形も含まれていたため、期限が到来しても処理が進まず2億円を超える膨大な不良債権が残された。





1973年、愛知県では風評被害での取り付け騒ぎも起きている。
http://photozou.jp/photo/show/2506004/215879694







写真は、日本銀行に近い、日本橋室町の路地裏。
たしか、三越の近くだったように思うが、詳細は失念した。

結婚式場の衣装室にも見えないし・・

芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草・向島は、「東京六花街」と呼ばれていたらしく、芳町は、ここからほど近い現在の日本橋人形町付近になる。
しかし、昭和52(1977)年の町名改正で、町名としての芳町が消滅、芸妓、料亭は減少。
2010(平成22)年現在、料亭はただ1軒となり、芸妓は16名になってしまったらしい。

ここは、その芸妓置屋なのかなと想像してみる。

Albums: Public

Tag: 100

Favorite (0)

No one has added this photo to his favorite.

Comments (2)

  • きしめん百八

    なんだか、サダコとかがこっちを見ていそうな、不気味な写真の気がします。

    03-14-2015 21:29 きしめん百八 (5)

  • 熊野牟 秀太

    貞奴はんでっか?
    えぇーっとぅ・・、あっ、おます!おます!
    ほぉーっ! 旦那はん、お目が高こうございますなぁ。

    03-14-2015 22:00 熊野牟 秀太 (16)

To make comments on artworks, click Login. User registration here.