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武藤山治が失業者に銃撃され翌日死亡 1934年3月9日

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Photos: 武藤山治が失業者に銃撃され翌日死亡 1934年3月9日

Photos: フジテレビが、お台場から本放送を開始 1997年3月10日 Photos: 忠犬ハチ公が渋谷駅前で衰弱死 1935年3月8日

1932年(昭和7年)、政界を引退した武藤山治は、国民の政治教育のために、私財を投じて
国民會舘(現・公益社団法人國民會館)を設立し、時事新報社の「経営担当者」となる。

1927(昭和2)年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、その系列であった「帝人」の株式22万株
は台湾銀行の担保になった。その後、帝人が好調に業績を上げたので,同株を入手しようと
いう動きが活発となり,33年5月、財界グループ「番町会」の河合良成らが11万株を入手。
その後、帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。

これに対して、34年1月に武藤山治の経営する「時事新報」が〈番町会を暴く〉を連載。
記事は、大きな社会問題となり、後に「帝人事件」へと発展することになる。
しかし、帝人事件の疑惑報道直後の3月9日、鎌倉の別邸を出たところで、福岡県出身の失業
者・福島新吉に銃撃され翌日に死亡。武藤の暗殺で疑惑は更に拡大された。
福島は、その場で自殺したために動機は未だ不明とされている。また「帝人事件」の主任検
事も、公判中に殉職をしている。


【武藤山治】
明治・大正・昭和期の実業家で、「鐘紡」の初代経営者。
労務管理思想家、言論人、衆議院議員(3期)。

美濃国(岐阜県)の豪農、佐久間家の長男として愛知県に生まれる。慶応義塾を卒業後に渡米
、帰国直後の1887年(明治20)武藤家の養子となる。
帰国後、東京銀座の横町に日本で初めての広告取扱業「新聞広告取扱所」を興し、雑誌『博聞
雑誌』を発刊、全国各地で販売する。その後、英字新聞の「ジャパン・ガゼット社」に翻訳記
者として勤務。
明治26(1893)年、三井銀行に入社。後に神戸支店副支配人となる。
明治27(1894)年、三井銀行の命により、鐘淵紡績兵庫分工場支配人に就任。
明治32(1899)年、中国の上海紡績を傘下に収めた後、国内の紡績業界会社の吸収合併を次
々成功させ、「鐘紡」を一躍国内トップクラスの企業へと進化させた。

大正13(1924)年、第15回衆議院議員総選挙で武藤を含む11名が実業同志会から当選。
衆議院議員を三期務めた後、政界を引退。昭和7(1932)年に時事新報社に入社する。


【鈴木商店】
かつて存在した日本の財閥、商社。
樟脳(しょうのう)、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立し、製糖・製粉・製鋼・タバコ
・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出した。
鈴木商店の子会社の1つである日本商業会社は、岩井産業と合併し日商岩井となり、更にニチ
メンと合併した「双日(現在)」の母体となった商社。


【時事新報社】
1882(明治15)年3月1日、福澤諭吉の手により創刊。その後は、慶應義塾大学及び、その
出身者が全面協力して運営した、戦前の五大新聞の一つ。
明治の末には、新聞業界の代表2人を選ぶとき、1人は『時事新報』から、他の1人は抽選で決
めるというほど地位は高かったが、大正関東地震(関東大震災)による被災で業績は悪化し、
部数も減少した。武藤山治社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズでは、赤字に陥っ
ていた新聞の経営が黒字になり、一気に部数を伸ばしたが、武藤の射殺後にシリーズは終了。
時事新報社の前途は再び多難となった。
現在も、会社組織「株式会社時事新報社」としては存続をしている。


【帝人事件】
昭和9年に摘発され、多くの政財界人を巻き込んだ、株取引をめぐる疑獄事件。
帝人社長や台湾銀行頭取、「番町会」の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら、全16人が起訴
され、これにより政府批判が高まって、同年7月に斎藤内閣は総辞職した。
この事件の逮捕者の拘留期間は200日に及び、拷問による自白の強要もあったという。
事件そのものは、でっち上げであることが判明し、全員無罪となったが、世間に対しては、
政治家や経済人は汚いものとの印象を与え、昭和11年2月26日の若手将校の決起による
二・二六事件を引き起こし、日本が戦争への道を突き進んで行くきっかけにもなった。

株取引で「番町会」に出し抜かれた元鈴木商店の金子直吉が、そのからくりを『時事新報』
に口外し始め、武藤山治が率いる「時事新報」が記事にすることで事件は表面化した構図
だが、ちょうどこの頃、朝日新聞の東京進出が云われていた時期であり、時事新報社には、
その焦りがあったことも要因とされている。

「帝人事件」で起訴された人物は、主に次のとおり。

島田茂台湾銀行頭取 - 背任・涜職容疑
永野護(番町会)
河合良成(番町会) - 背任容疑
黒田英雄大蔵次官 - 涜職容疑
大久保偵次大蔵省銀行局長
大野龍太大蔵省特別銀行課長
相田岩夫大蔵省銀行検査官
中島久万吉商工大臣 - 涜職容疑
三土忠造鉄道大臣
高木復亨帝人社長 - 背任・涜職容疑


【番町会】
この事件で起訴された河合良成によれば、
「番町会とは、関東震災以前に、河合氏と後藤国彦(京成電鉄二代目社長)と岩倉具光
(元阪急デパート副社長)の3人で作った会であり、他の友人も入れて会員約10人ほど。
毎月14日の晩、郷誠之肋男爵の番町の私宅でご馳走になる会であり、大正何年に作っ
たかの記憶は薄れたてが、大震災前だと思う。
三人とも郷さんと特別に近い間柄で、郷さんの部下であり、時事新報の「番町会を暴く」
という乱暴な記事のために有名になったが、本来はそんな有力なものではない。
郷さんは、麹町の番町の邸宅と料理等がご白慢だったので、番町会はいわば郷さんの
屋敷でご馳走になって、勝手な雑談を交すということだけで、財界や政界について特別
の打ち合わせや相談をやったことなど一度だってなかった。」とは云うが。


【郷誠之助】(1865~1942)
日本運輸の社長として実業界に登場。その後多くの企業の再建を任された敏腕経営者。
明治後半から大正そして昭和戦前期にかけて活躍した財界の巨頭で、戦後の財界リー
ダーとなる永野護、小林中、河合良成ら、当時の若手実業家を集め、私邸で番町会を催
すなど財界世話役としても慕われた。
なお、五島慶太のライバルだった京成電鉄二代目社長後藤国彦によって、郷の伝記本
の校閲が行われている。






写真は、鎌倉七里ヶ浜海岸。
夜の海は漆黒で、海上には何も見えない。ただ、さざ波の音だけが聞こえる。



武藤氏が銃撃されたのは、自宅の鎌倉に近い北鎌倉と書かれていたので、
自宅も、この海沿いではなく山沿いだったのだろう。

鎌倉には、海があり、山があり、寺があり、江ノ島があり、江ノ電が走る。
昔から大好きな街で、思い出も多い。





なお、鐘紡のあった「鐘ヶ淵駅」周辺の、現在の地名は墨田区墨田となっている。
http://photozou.jp/photo/show/2506004/189879594

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