この照明と背面の筒、
個人的にはとても気に入っているのですが、
先回のアップでアクセスが伸び悩んでいるのが
不服であり、わざわざ撮り直しに行きました。
アルバム: 東京散策
タグ: 豊島区
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コメント (7)
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素晴らしい説得力のある一枚だと思います。
自分で気に入ってもなかなか評価されないことは確かにあります。
その気持ちは痛いほどわかります。
それは写真だけではなく、自分のコンサートでは日常的な事です(爆)
知り合いが来て、実は良いと思って帰っているかも知れないけど、知り合いなのに何も言われないで帰ると、その日は、絶対に酷いと思われたと思い込み凹みます(爆)2014年7月21日 04:32 白石准 (40)
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>白石准 様
ありがとうございます。
最近、私自身が銀残しの錆びた感じの色合が少し気に入っているのと、
この前のアップしたのが寄り過ぎていたのとで、
サムネだと何が写っていたのかわからなかったのかもしれません。
私は物事の感想を抽象的に表現する、されるのが苦手なもので、
例えば「良かったです」「美しいです」「悪いです」など、一言でまとまるならば、
いちいちコメントしなくても良いんじゃないかな、と思っています。
ここなら☆で、演奏会なら最後の拍手で済むと考えていますので。
出来栄えへの具体的な評価のコメントって、思いのほか困るんですよ。
全体の本人の「やる気」みたいなのは伝わっても、自分が良いなと思う箇所が
作成者・演奏者の一番のお気に入りと違うことがありますから。
それを良しとする方なら良いのですが、同調を求める方相手だと面倒なんです。2014年7月21日 12:32 ぼーもあ (12)
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自分の思いがストレートに反映するのも楽しい、しかし、自分の気づかなかった魅力を鑑賞者(それは音楽でも写真でも)に指摘して貰った時の嬉しさというのは、やはり嬉しいものです。
ぼくはその「やっかいな」世界で数十年生きてきたので、的外れなものにウンザリしたことはありますが、拍手や☆だけでは伝わらない思いというのはあります。
ゆえに、たまにですが、養護学校(今は特別支援学校と名称が変わったけど)でピアノを弾くと、国会のヤジの数十杯素直で有り難い言葉の飛び交う拍手を貰えます。
たまに興奮して僕の弾いている鍵盤までさわりに来る子も居ます(爆)
それは、感情の感じない、「動作としてだけの拍手」とは比べものになりませんね。
個人的には、この写真に関して、そしてぼーもあさんの他の写真、そして他の方々の同様なもの、僕がコメントする動機は、その思いを伝えたいからで、☆だけでは伝わらないと思って居るからです。2014年7月23日 06:10 白石准 (40)
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>白石准 様
私の上のコメントを読み直していて、記載不足の部分が多々ありました。
というわけで、誤解を招く表現があり、申し訳無いのですが、
「思うところがあっても私はコメントをしない」と言うわけでなく、
「何であれコメントを求める、その上で最終的に同調を求める方」が面倒なのです。
(要約:俺様の話を聞け、俺様は絶対である、というお方は嫌いです)
ご存知の通り、私もコメントを残すときは残していますが、
お相手の方が「俺様」なのかは、実際に接してみないとわからないです。
意見を述べて、お相手の方が確認して下さるのは良いのですが、
「その見方は違う。自分はこう思っている。これが正しい。」こういう人は疲れます。
そういう方が現実の身近におり、ネットでは避けたいと願う以上、
コメントへの一歩を踏み出すのが億劫にもなるのです。
くだけた文章を書くのも、どうにも苦手なもので。(続く)2014年7月23日 22:30 ぼーもあ (12)
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(続き)
個人的には、色々とコメントを頂戴出来るのはありがたいと思っていますし、
私も指摘していただけるのは嬉しいです。
たとえば、最近だと↓のコメントを頂戴して、
http://photozou.jp/photo/show/2397900/207293920
↓を撮り直したりもしていますから。
http://photozou.jp/photo/show/2397900/207504324
なお、カメラ用語はさっぱりなので、それで指摘されると苦笑い状態です。
そういうわけで、コメントを頂戴出来る写真については、今後も引き続き、
ご遠慮なくいただければと思っています。
で、例を挙げて下さった養護学校の方のお話ですが、極一部の方々については、
私も知見があると言えばあります。
そういった方々の感覚の受容・発信は閾値の健常者(表現として相応しいか置いといて)
よりも特異であるため、興奮の度合いが桁違いである一方、体で表しているので、
言葉が不要な場合も、ままあります。
閾値の健常者でも、感動で言葉が出ない状況はあるかと思います。
支援を必要とするレベルではなくとも、言語表現が不得手な人間もいます。
「良いんだけど、何が良いんだかわからない。でも良い。だから☆。」は、
感情がこもらないではなく、一つの肯定的手段として、私はありと考えています。(続く)2014年7月23日 22:50 ぼーもあ (12)
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(続き)
私の拍手や☆のスタンスなのですが、これも言葉が不十分でした。失礼致しました。
「動作として」や「気遣いで」ではなく、「良いです」の意思表示です。
良いと感じたものを素直に表現したいのですが、
「良かったです」
『どこが?』
「どこが?と言われても、全体的に」
『自分は○○が良いと思っていて△△の表現に気を遣っていて(以下自己主張」
「(違うような、そうな気もするが、この人はそう言いたいのだからそうなんだ)」
という、面倒なやり取りを回避するための手段と受け取っていただければ幸いです。
「どこが?」を問われると、詳細に考え始めてしまうので、何を言えば良いのか
わからなくなってしまうのです。言葉の選択が苦手だから。
私に限って言えば、☆は「説明は出来ないが、感ずるものがある」お写真に
つけさせていただいています。
何がどのように良いか、それに該当する言葉を持ち合わせていないので、
説明・指摘の仕様がありません。コメント出来た方が良いですが、出来ません。
だから☆です。
自分のところについている☆は、私は「何か感ずるものがあったのか」くらいに
思っています。(続く)2014年7月23日 22:51 ぼーもあ (12)
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(続き)
最後に、私がつけた☆に、同じものを受け取っていただきたいとは思いませんが、
私の中では、「言葉で整理するのは難しいが、良いと思っている」の意思表示です。
それは、演奏会における拍手も同様です。
良いと感ずるものが無ければ、私は拍手しないですし、悪いと思えば無言で帰りますから。
失礼な喩えかもしれませんが、「動作としてだけの拍手」は、私にとって、
むりやり不味い飯を有料で食わされ、美味いと言わされるのと一緒です。
長々と書きましたが、動機の部分は私も白石様と同じと考えています。
ただ、自分が感じたものを言語で解釈できなかったり、上手く表現する
文章の組み合わせを持ち合わせていなかったりすることが、
私を抽象的な一言のコメントから遠ざけているのだと思います。2014年7月24日 02:16 ぼーもあ (12)
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