28長久保

28長久保
28木曾海道 六拾九次之内 長久保(広重)
日本橋から185.0Km

越後に抜ける北国街道の追分として賑った。本陣石合家は現存する
信濃路最古の建物。建坪およそ200坪。部屋数22室。他に問屋場
代官詰所、高札場が併置されていた。
江戸時代末の天保十四年(1843)には、四十三軒もの旅籠屋が
長久保宿にはあって、信濃二十六宿では塩尻宿に次ぐ数を誇りまし
た。その要因としては、宿の前後に笠取峠・和田峠の難所が控えて
いたこと、甲州道や伊那方面への近道となる大門通、武石峠越えに
松本方面から佐久方面へ通じる大門道、北国街道へ通じる善光寺道
・上田道に接する交通の要衝であったこと、温泉場でもある下諏訪
宿に宿泊した場合、日程的に好都合だったことなどが上げられます
中山道は、同じく江戸と京・大坂を結ぶ東海道よりも十里(約40
Km)程長く、しかも山がちで、峠も多く人々や物の往来には困難
が伴いました。しかし、東海道のような大きな河川が少なかったた
め、大水の際の川留によって何日も逗留することなく、ほぼ予定通
りの旅が出来たため利用する人々も多かったようです。参勤交代の
折りに中山道を通って、長久保宿を通過した大名は尾張(愛知県)
・紀伊(和歌山県)の徳川家など三十四家で、これは東海道の四分
の一程にあたります。このほか、二条城番・大阪城番・日光例幣使
(日光東照宮の大祭に朝廷から派遣される使者)などの公用者も片
道は中山道を通りました。

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